今回は服部半蔵の墓について取り上げます。
なお、今回取り上げるのは二代目・服部半蔵正成の墓です。この記事の前半では服部半蔵について取り上げます。後半では服部半蔵の菩提寺と墓について取り上げます。
服部半蔵とは?
服部半蔵は服部家の当主が代々名乗っています。初代は徳川家康の祖父の頃に忍者として仕えていました。徳川家康の家臣として知られている服部半蔵は二代目で、本名は服部半蔵正成といいます。服部半蔵は代々忍者であることを思い浮かべる人が多いと思いますが、二代目服部半蔵以降は忍者ではありません。
二代目服部半蔵正成は1542年に三河国に生まれ、徳川家康の家臣になりました。1582年の本能寺の変で織田信長が自害したことを知ると、服部半蔵は伊賀衆と甲賀衆を説得して堺に滞在していた家康ら一行を伊賀の山々を越えて脱出させることに成功しました。
三河国の岡崎に帰還させた「伊賀越え」で有名です。1597年に二代目服部半蔵は病気で死亡しました。
服部半蔵正成の墓はどこにある?
服部半蔵正成の墓は東京都の西念寺にあります。ここでは、西念寺について創建した経緯と墓の場所について取り上げます。
まず、西念寺の創建の経緯について取り上げます。1590年に徳川家康が関東地方に移ると、服部半蔵は家臣として関東地方に移りました。半蔵が関東に移って数年後の1594年に西念寺は建てられました。
服部半蔵が西念寺を建てた理由として、服部半蔵は徳川家康の嫡男だった松平信康の供養のために建てられたと伝えられています。松平信康だけでなく戦で討ち取った人々の追善供養のためにも建てられたと伝えられています。
次に、松平信康について取り上げます。松平信康は徳川家康と正室の築山殿との間に生まれました。信康の正室は織田信長の娘の五徳で、徳川家康と織田信長の同盟関係の根拠にもなっていました。
織田信長は信康が武田勝頼と内通しているという疑いを持つようになり、信長は家康に信康を切腹させるように命令しました。家康は信長との同盟を維持するために、信康を自害させました。信康の自害で介錯をしたのは服部半蔵です。
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西念寺へのアクセス方法
当初、西念寺は麹町清水谷にありましたが、1634年に江戸城の拡張にともなう外堀新設工事と幕府の政策のため、濠の外に各寺院を配置しました。現在は新宿にあります。JR中央線と東京メトロ 丸ノ内線・南北線の四谷駅から徒歩8分の場所にあります。
現在、西念寺にある服部半蔵の墓は新宿区指定の史跡になっています。西念寺にある服部半蔵の槍は新宿区指定の文化財に指定されています。
戦国時代ライターオフィス樋口の独り言
今回は服部半蔵の墓について取り上げました。この記事を通して、服部半蔵の墓が東京都内にあることが分かりました。西念寺は服部半蔵が創建した寺であることも分かりました。ここでは西念寺の文化財について紹介します。
西念寺のホームページによれば、西念寺が完成する前に服部半蔵が死亡しているということです。1597年に55歳で死亡していることから誰が西念寺の完成を見届けたのか気になります。
西念寺には新宿区指定の史跡である服部半蔵の墓と文化財である槍がありますが、これら指定されている文化財以外について取り上げます。最初に、松平信康供養塔について取り上げます。この供養塔には信康の遺髪が納められています。
次に、徳川十六神将図があります。この掛け軸には徳川家康とともに戦った十六人の武将の肖像画が描かれています。服部半蔵正成の姿もあります。
大多喜城本丸御殿より移築した本堂の一部である書院が残されています。第二次世界大戦で本堂が焼失しました。戦後、本多忠勝の居城だった大多喜城の本丸御殿の一部を移築することで再建しました。
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