服部半蔵の墓はどこにある?NHK大河「どうする家康」にも登場するホントは忍者ではなかった武将

2023年3月12日


服部半蔵

 

今回は服部半蔵(はっとりはんぞう)の墓について取り上げます。

 

病死で亡くなった服部半蔵

 

なお、今回取り上げるのは二代目・服部半蔵正成(ふはっとり まさなり)の墓です。この記事の前半では服部半蔵について取り上げます。後半では服部半蔵の菩提寺(ぼだいじ)と墓について取り上げます。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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服部半蔵とは?

 

服部半蔵は服部家の当主が代々名乗っています。初代は徳川家康(とくがわいえやす)の祖父の頃に忍者として仕えていました。徳川家康の家臣として知られている服部半蔵は二代目で、本名は服部半蔵正成といいます。服部半蔵は代々忍者であることを思い浮かべる人が多いと思いますが、二代目服部半蔵以降は忍者ではありません。

 

燃える本能寺

 

二代目服部半蔵正成は1542年に三河国に生まれ、徳川家康の家臣になりました。1582年の本能寺の変で織田信長が自害したことを知ると、服部半蔵は伊賀衆(いがしゅう)甲賀衆(こうかしゅう)を説得して堺に滞在していた家康ら一行を伊賀の山々を越えて脱出させることに成功しました。

 

三河国の岡崎に帰還させた「伊賀越え(いがごえ)」で有名です。1597年に二代目服部半蔵は病気で死亡しました。

 

 

 

服部半蔵正成の墓はどこにある?

武士なのに忍者とよく勘違いされる服部半蔵

 

服部半蔵正成の墓は東京都の西念寺(さいねんじ)にあります。ここでは、西念寺について創建した経緯と墓の場所について取り上げます。

 

まず、西念寺の創建の経緯について取り上げます。1590年に徳川家康が関東地方に移ると、服部半蔵は家臣として関東地方に移りました。半蔵が関東に移って数年後の1594年に西念寺は建てられました。

 

服部半蔵が西念寺を建てた理由として、服部半蔵は徳川家康の嫡男だった松平信康(まつだいら のぶやす
)
の供養のために建てられたと伝えられています。松平信康だけでなく戦で討ち取った人々の追善供養のためにも建てられたと伝えられています。

 

次に、松平信康について取り上げます。松平信康は徳川家康と正室の築山殿との間に生まれました。信康の正室は織田信長(おだのぶなが)の娘の五徳で、徳川家康と織田信長の同盟関係の根拠にもなっていました。

 

 

織田信長は信康が武田勝頼(たけだ かつより
)
と内通しているという疑いを持つようになり、信長は家康に信康を切腹させるように命令しました。家康は信長との同盟を維持するために、信康を自害させました。信康の自害で介錯をしたのは服部半蔵です。

 

関連記事:明智光秀と服部半蔵は同一人物だった?伊賀を越えた光秀に迫る

 

西念寺へのアクセス方法

 

当初、西念寺は麹町清水谷(こうじまちしみずたに)にありましたが、1634年に江戸城の拡張にともなう外堀新設工事と幕府の政策のため、濠の外に各寺院を配置しました。現在は新宿にあります。JR中央線と東京メトロ 丸ノ内線・南北線の四谷駅から徒歩8分の場所にあります。

 

現在、西念寺にある服部半蔵の墓は新宿区指定の史跡になっています。西念寺にある服部半蔵の槍は新宿区指定の文化財に指定されています。

 

 

戦国時代ライターオフィス樋口の独り言

三国志ライター オフィス樋口

 

今回は服部半蔵の墓について取り上げました。この記事を通して、服部半蔵の墓が東京都内にあることが分かりました。西念寺は服部半蔵が創建した寺であることも分かりました。ここでは西念寺の文化財について紹介します。

 

西念寺のホームページによれば、西念寺が完成する前に服部半蔵が死亡しているということです。1597年に55歳で死亡していることから誰が西念寺の完成を見届けたのか気になります。

 

西念寺には新宿区指定の史跡である服部半蔵の墓と文化財である槍がありますが、これら指定されている文化財以外について取り上げます。最初に、松平信康供養塔について取り上げます。この供養塔には信康の遺髪が納められています。

 

次に、徳川十六神将図があります。この掛け軸には徳川家康とともに戦った十六人の武将の肖像画が描かれています。服部半蔵正成の姿もあります。

 

大多喜城本丸御殿より移築した本堂の一部である書院が残されています。第二次世界大戦で本堂が焼失しました。戦後、本多忠勝の居城だった大多喜城の本丸御殿の一部を移築することで再建しました。

 

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自己紹介:フリーランスで予備校の講師をしています。 歴史が好きで、予備校では主に日本史を指導しています。 センター試験の点数を40点台から80点台に伸ばした実績があります。 好きな歴史人物:徳川慶喜(理由:多趣味であることが共通しているから)

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