交番は1874年(明治7年)警視庁が発足すると同時に東京全域に設置されたのが始まりです。交番は日本独自の制度ですが治安維持に劇的な効果があるとして、アメリカ合衆国、シンガポール、ブラジルに輸出されています。そしてイラク戦争後、反米武装勢力によるアメリカ兵の被害に悩んだ米軍にも導入され、治安維持に劇的な効果を上げたのです。
戦闘終結後に地獄が始まったイラク戦争
イラク戦争に勝利したアメリカを中心とする多国籍軍の戦死者は僅か170名でした。勝ち誇るアメリカですが苦難は占領後に始まりました。反米武装勢力は市街地で市民に紛れ込み、住民を巻き込んだ無差別攻撃で米兵を殺害し始めたのです。砂漠では効果を発揮したアメリカ軍のハイテク兵器も遮蔽物が多い市街地での戦いでは役に立たず、多国籍軍の兵士は次々に倒れていき、占領から8年で多国籍軍の死者は5000人を超えます。見えない敵にアメリカ兵は精神を病み、治安維持が終わると警備兵に守られたFOB(アメリカ本国並みの設備が整えられた基地)に逃げ込んでいました。
これにより、何度反米武装勢力の掃討を繰り返しても、米軍がFOBに戻った瞬間に逃げ出した武装勢力が街に戻ってきて支配を回復するといういたちごっこが繰り返されたのです。
治安最悪なイラクの都市 タル・アファル
2005年、アメリカ軍は作戦の変更を余儀なくされ、ラムズフェルド国防相を更迭し、デイヴィット・ペトレイアス大将が中心となり、現場の意見を取り入れた上で統治手法の改善を開始します。この中で最も象徴的な挑戦をしたのがH・Rマクマスター大佐が率いる3500人が守る。25万人が暮らす都市、タル・アファルの治安の回復でした。タル・アファルは反米武装勢力の戦略及び補給拠点であり、何度掃討作戦を繰り返しても無駄な鬼門だったのです。
FOBに帰るな!交番で市民を守れ
マクマスター大佐はタル・アファルを守る3500人の米兵に対し、FOBに帰還する事を禁止します。それに対し兵士からは猛烈な不満が出ました。タル・アファルには、アイスクリームもプールもアメリカ映画もないというのです。この不満に対しマクマスター大佐は「確かにそうだ!だが、ここには守るべき市民がいる」として兵士を説得します。
マクマスター大佐は、タル・アファル市内29カ所に、日本の交番のような小さな前哨基地を設置し24時間警戒を続けました。これに対し反米武装勢力は猛反発し、連日のように前哨基地を攻撃し米軍は甚大な被害を出します。しかし大佐と3500人の米兵は挫けず、29カ所の前哨基地を守り抜き、市内の巡回パトロールを欠かさなかったのです。
劇的に治安が回復したタル・アファル
それから数ヶ月でタル・アファルの治安は劇的に回復しました。反米武装勢力の中でも穏健派は武装解除に応じ、市民にもアメリカ軍への協力者が増えて過激派を米軍に引き渡すようになります。タル・アファルの治安は米軍が安全なFOBに逃げ込まず、住民を過激な反米武装勢力の報復から守るようになって、初めて回復したのです。そして、治安回復の拠点となったのは住民の目につき、安心の拠り所となった小さな前哨基地、日本的な交番のシステムでした。
まとめ
筆者はイラク戦争をアメリカの侵略だと考えていますから、アメリカのイラク統治を全く評価していません。しかしマクマスター大佐の「俺達はイラクの人々を反米武装勢力から守るために駐留している」という信念は評価しますし、その信念を交番に立ち続け命を懸けて守った点については賞賛したいと思います。
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