日本の三大怨霊といえば、菅原道真、崇徳上皇、そして平将門です。しかし、この中でぶっちぎりに祟られるイメージがあるのは平将門でしょう。どうして将門の祟りイメージはここまで強いのでしょうか?
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どうして将門は荒ぶり続けるのか?
菅原道真が祀られる湯島天神は受験の神として人気がありますが、祟りのイメージはありません。崇徳上皇を祀る白峯神社の周辺で祟りが起きたという話もありません。ところが東京大手町にある将門の首塚に関しては、最近まで祟りの噂が絶えません。それは、どうしてなのか?平将門が特別怒りん坊なのでしょうか?
神田明神に祀られ敬愛を受ける将門
死んでから1000年近くが経過し、いくらなんでも怒り過ぎだろうと思える平将門ですが、現代人のイメージとは違い、関東では重税を課して庶民を苦しめていた国司を討伐した英雄として人気がありました。
そして、将門死後400年近く経過した1309年、当時の神田明神に将門も祀られるようになります。将門は百戦錬磨の武勇の持ち主として、関東の大名の尊敬と崇拝を受け、太田道灌や後北条氏のような関東ゆかりの戦国大名に信仰され、関ケ原の戦いの直前には、徳川家康も参拝しています。家康の参拝を切っ掛けに神田明神は、幕府公認の江戸総鎮守となり、江戸城表鬼門の位置に移設されたのです。
幕府滅亡で立場が悪くなる将門
しかし、江戸城の総鎮守とされた将門は明治維新で立場が悪くなります。明治新政府からみると、神田明神は幕府の神社であり、祀られた将門は「新皇」を自称し天皇に反逆した朝敵になるからです。その煽りを受け明治7年、将門は神田明神の本殿から外されます。
将門を愛する江戸庶民が不満を強める
そんな維新政府に対して面白くなかったのが江戸の人々でした。幕府は倒れ、田舎者の薩摩や長州人が東京に入り込んで、アゴで指図するのですから腹が立つに決まっています。また、神田明神は庶民からの信仰も篤く将門は江戸のアイドルでした。それを朝敵だからと黙って分離するとは何事か!こうして、江戸庶民は対抗策として天下祭と称された神田祭を10年間も中止しました。
関東大震災で将門の祟りが囁かれる
将門塚は1923年の関東大震災で倒壊します。そして、その跡地に旧大蔵省の仮庁舎が建設されることになりますが、その矢先に大蔵省の職員や関係者が相次いで亡くなり、これが平将門の祟りと噂されました。それまで長い間、祟りらしい祟りがなかった将門塚で祟りが言われだしたのは、関東大震災の直後なのです。
噂が広まり政府が対応を改める
この噂を無視できなくなったのか、旧大蔵省の主催で1928年には鎮魂祭が実施され、神田明神宮司、同社と同じく将門鎮魂を担ってきた浅草日輪寺の住職が招待された上に、当時の大蔵大臣も臨席しました。これは、明治維新の時の政府の冷たい対応の方針転換と言っていいでしょう。将門の祟りの噂が政府の対応を変えたのです。さらに昭和16年にも、再び将門の鎮魂が行われます。背景には旧大蔵省が落雷で火事になったことや井上準之助と高橋是清の大蔵大臣2名が暗殺とクーデターによる非業の死を遂げた事がありました。
将門は政治の乱れを憂いて祟る
平将門の首塚は、東京大手町という政治と経済の中心地に存在します。そして、土地の人々の政治への不満を吸収し、弱い庶民の怒りを代弁して祟ると言えます。朝廷が派遣して国司による重税に苦しむ関東の人々の為に決起した将門は、個人的な恨みではなく庶民を苦しめる政府に対し、怒り続けているのです。