どうして平将門は祟り続けるのか?その興味深い背景

2023年4月26日


東京スカイツリー、kawausoさん

 

日本の三大怨霊といえば、菅原道真、崇徳上皇、そして平将門です。しかし、この中でぶっちぎりに祟られるイメージがあるのは平将門でしょう。どうして将門の祟りイメージはここまで強いのでしょうか?

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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どうして将門は荒ぶり続けるのか?

忙しい方にざっくり解答03 kawausoさん

 

菅原道真が祀られる湯島天神は受験の神として人気がありますが、祟りのイメージはありません。崇徳上皇を祀る白峯神社の周辺で祟りが起きたという話もありません。ところが東京大手町にある将門の首塚に関しては、最近まで祟りの噂が絶えません。それは、どうしてなのか?平将門が特別怒りん坊なのでしょうか?

 

 

神田明神に祀られ敬愛を受ける将門

鶴岡八幡宮 建物 モブ

 

死んでから1000年近くが経過し、いくらなんでも怒り過ぎだろうと思える平将門ですが、現代人のイメージとは違い、関東では重税を課して庶民を苦しめていた国司を討伐した英雄として人気がありました。

徳川四天王のひとりで家康に一番近かった男・酒井忠次

 

そして、将門死後400年近く経過した1309年、当時の神田明神に将門も祀られるようになります。将門は百戦錬磨の武勇の持ち主として、関東の大名の尊敬と崇拝を受け、太田道灌や後北条氏のような関東ゆかりの戦国大名に信仰され、関ケ原の戦いの直前には、徳川家康も参拝しています。家康の参拝を切っ掛けに神田明神は、幕府公認の江戸総鎮守となり、江戸城表鬼門の位置に移設されたのです。

 

 

幕府滅亡で立場が悪くなる将門

幕末77-14_錦の御旗

 

しかし、江戸城の総鎮守とされた将門は明治維新で立場が悪くなります。明治新政府からみると、神田明神は幕府の神社であり、祀られた将門は「新皇」を自称し天皇に反逆した朝敵になるからです。その煽りを受け明治7年、将門は神田明神の本殿から外されます。

 

将門を愛する江戸庶民が不満を強める

名古屋城

 

そんな維新政府に対して面白くなかったのが江戸の人々でした。幕府は倒れ、田舎者の薩摩や長州人が東京に入り込んで、アゴで指図するのですから腹が立つに決まっています。また、神田明神は庶民からの信仰も篤く将門は江戸のアイドルでした。それを朝敵だからと黙って分離するとは何事か!こうして、江戸庶民は対抗策として天下祭と称された神田祭を10年間も中止しました。

 

関東大震災で将門の祟りが囁かれる

国会議事堂

 

将門塚は1923年の関東大震災で倒壊します。そして、その跡地に旧大蔵省の仮庁舎が建設されることになりますが、その矢先に大蔵省の職員や関係者が相次いで亡くなり、これが平将門の祟りと噂されました。それまで長い間、祟りらしい祟りがなかった将門塚で祟りが言われだしたのは、関東大震災の直後なのです。

 

噂が広まり政府が対応を改める

日本史01 煙を吐く工場

 

この噂を無視できなくなったのか、旧大蔵省の主催で1928年には鎮魂祭が実施され、神田明神宮司、同社と同じく将門鎮魂を担ってきた浅草日輪寺の住職が招待された上に、当時の大蔵大臣も臨席しました。これは、明治維新の時の政府の冷たい対応の方針転換と言っていいでしょう。将門の祟りの噂が政府の対応を変えたのです。さらに昭和16年にも、再び将門の鎮魂が行われます。背景には旧大蔵省が落雷で火事になったことや井上準之助と高橋是清の大蔵大臣2名が暗殺とクーデターによる非業の死を遂げた事がありました。

 

将門は政治の乱れを憂いて祟る

出陣中に陣中にて死去した石川数正(モブ)

 

平将門の首塚は、東京大手町という政治と経済の中心地に存在します。そして、土地の人々の政治への不満を吸収し、弱い庶民の怒りを代弁して祟ると言えます。朝廷が派遣して国司による重税に苦しむ関東の人々の為に決起した将門は、個人的な恨みではなく庶民を苦しめる政府に対し、怒り続けているのです。

 

 

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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