大河ドラマ「どうする家康」で古田新太が演じた足利義昭は過去類例を見ないほどのバカ殿として描かれていました。烏帽子は落ちるわ、家康の金平糖は奪って食うわで、威厳の欠片もありませんでしたが、実際の義昭はそんな横暴な人だったのでしょうか?
当初から信長との間に考え方の齟齬はあった
織田信長と足利義昭は、かなり急ピッチで上洛に臨んだので、双方が考える統治には大きな齟齬がありました。そこで信長は義昭と自身の権力をハッキリと分ける名目で、殿中御掟9か条と呼ばれる将軍の権力を制限する掟を制定し、これを義昭に守らせる事にします。
中身を見てみると、将軍への直訴の禁止や比叡山延暦寺の僧兵、医師、陰陽師をみだりに殿中に入れないこと、幕臣は申次を無視して将軍にモノを言ってはならないなど、信長の知らない所で、義昭が別の勢力と結託しないように警戒しています。
どんどん追加される殿中御掟
当初は9ヶ条だった殿中御掟ですが、足利義昭は、あまり守ろうとしなかったようです。そのため、信長はどんどん殿中御掟を増やしていき、1年と少しで21ヶ条まで増えていました。特に最後の5ヶ条はかなり厳しく、義昭が諸大名に御内書(将軍の公的な私文書)を出す時には、必ず信長の副署が必要とか、それまでに義昭が諸大名に出した命令は全て無効とし、改めて考えた上で内容を定めるとか、政治については信長が委ねられたのだから、義昭の意向を一々聴かずに進めるなどでした。
それでも義昭は殿中御掟を守らない
ここまで厳しく詰めても、義昭は殿中御掟をまともに守らず、むしろ信長が義昭と室町幕府を統制するのに苦労したそうです。特に義昭は手紙魔であり、御内書を諸大名ばかりではなく、諸大名の頭越しに大名の家臣にまで濫発し、言った言わないで社会混乱が起きていました。
また、義昭の家来が将軍の意向をかさに着て、寺社荘園を横領する(その中には明智光秀もいた)等、信長は横暴で自分勝手な義昭を制御する為に、殿中御掟21ヶ条を出さざるを得なかったのです。
まとめ 将軍義昭は横暴だった
従来、殿中御掟21ヶ条は天下を自分の手に握らんとした信長が足利義昭を傀儡とするために出したとされていましたが、最近の研究では殿中御掟21ヶ条は、義昭も信長も合意の上での取り決めであり、義昭がそれを一方的に破って、信長が我慢していた事が明らかになっています。義昭にも言い分はあるのでしょうが、どうも史実の義昭もドラマ同様、横暴な男だったようです。
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