今回は織田信長と宗教との関係について取り上げます。これまでの記事では織田信長は仏教勢力に悩まされていたことを取り上げ、その勢力を切り崩すためにキリスト教の布教を許したことを取り上げました。
信長は一向一揆や比叡山延暦寺を焼き討ちにするなど仏教勢力を弾圧してきましたが、必ずしも全ての仏教勢力を弾圧したわけではありません。保護した仏教勢力があります。この記事の前半では信長に敵対していた一向一揆と延暦寺について取り上げます。後半では仏教を保護していた事例として本能寺を取り上げます。
織田信長に抵抗していた一向一揆とは?
一向宗とは浄土真宗のことです。浄土真宗は南無阿弥陀仏を唱えるだけで救われるという簡単な教えであることから農民を中心に広まりました。浄土真宗の信者のことを門徒といいます。
一向一揆は15世紀末から16世紀末にかけて、門徒が近畿・北陸・東海地方の戦国大名に抵抗したことをいいます。加賀の一向一揆については戦国大名を倒して100年間自治を行ったことが有名です。加賀の一向一揆は織田信長によって滅ぼされ、前田利家が加賀国を治めました。
織田信長を悩ませた一向一揆では、伊勢長島の一向一揆や石山合戦が有名です。これらの一向一揆については足利義昭の号令によって信長を包囲しました。伊勢長島の一向一揆を倒すと、石山合戦は1580年に石山本願寺と和睦したことで決着しました。
織田信長が焼き討ちをした比叡山延暦寺とは?
延暦寺は平安時代初期に天台宗の最澄が開きました。平安時代に武士が台頭するようになった頃から武装するようになり、院政を行っていた上皇を悩ませていました。以降、延暦寺を攻撃することはタブーとされていました。
織田信長と足利義昭が対立し始めました。足利義昭が延暦寺に味方するよう要請すると信長に抵抗するために朝倉義景・浅井長政の連合軍を匿います。信長は延暦寺に武装解除するよう通達しますが、延暦寺は拒否しました。
延暦寺が拒否すると、信長は延暦寺を焼き討ちにしました。焼き討ちにしたとき、僧兵だけでなく女や子どもも関係なく殺害したといわれています。
織田信長が保護した仏教勢力とは?
織田信長といえば延暦寺を焼き討ちにしたり一向一揆を倒したりするなど抵抗する仏教勢力を弾圧したことで有名です。仏教勢力を弾圧した一方で、信長は保護した仏教勢力もあります。
保護した仏教勢力として本能寺があります。本能寺は日蓮宗(法華宗)の寺院です。本能寺は高い塀や深い堀で囲まれています。信長は京で宿泊する際、安全な作りになっていたことから本能寺を利用していたと考えられます。
他に保護した仏教勢力として、大徳寺が挙げられます。大徳寺は臨済宗の寺院で、織田信長の菩提寺となっています。本能寺の変の後、豊臣秀吉が信長の葬式を行ったことで有名です。
戦国時代ライターオフィス樋口の独り言
今回は織田信長と宗教との関係について取り上げました。信長が一向一揆や延暦寺を弾圧したとき、女や子ども関係なく殺害したことに対する印象が残っているために明治時代初期の廃仏毀釈運動のように全ての仏教勢力を弾圧したと勘違いする人が多いと思われます。
しかし、この記事を通して分かったことは全ての仏教勢力を排除したわけではないということです。また、信長が抵抗する勢力には厳しい弾圧を加えますが、味方するものには保護することも分かりました。仏教勢力に対する弾圧と保護の場合分けを通して、信長の性格が分かるかもしれません。
今後、戦国武将と宗教との関係、お墓との関係について注目したいと思います。宗教との関係については戦国武将のお墓が多いといわれている高野山に注目したいと思います。
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