織田信長はチンギスハンのように世界の覇権を取ることができた?

2019年3月8日


 

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本能寺の変の織田信長

 

本能寺の変(ほんのうじのへん)がなかったら歴史はどう変わったのか気になると思います。今回は、本能寺の変が起こらず、織田信長(おだのぶなが)が全国を統一したならば、世界に進出していたのでしょうか。

攻め寄せる蒙古兵(モンゴル)

 

世界に進出したとしたらチンギスハンのモンゴル帝国のように世界の覇権を握ることができたのでしょうか。この記事の前半ではチンギスハンの生涯とモンゴル帝国について取り上げます。織田信長については生涯のみ取り上げます。後半では織田信長が全国を統一してから世界に進出したとしたらチンギスハンのように世界の覇者になれるのか考えてみます。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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チンギスハンとモンゴル帝国とは?

チンギス・ハン

 

チンギスハンとは1167年頃にモンゴルに生まれました。チンギスハンと名乗る前はテムジンと名乗り、モンゴル族を統一するとチンギスハンと名乗りました。チンギスハンのハン(汗)とは遊牧民族(ゆうぼくみんぞく)の君主の称号として使われています。

 

「金」の国旗をバックとした兵士

 

モンゴル族を統一すると、1211年に中国東北部の(きん)を侵略しました。金とは女真族(じょしんぞく)が中国東北部に建てた王朝のことをいいます。1219年からイスラム圏やロシアの連合軍と戦います。1219年にはシャー王朝を滅亡に追い込みました。1223年にロシア諸侯連合軍と戦いました。

 

 

西夏の旗の兵士

 

1226年にチンギスハンは、金と同盟を進めていた西夏(せいか)との戦争を始めます。チンギスハンは1227年に病死しましたが、オゴタイハンが西夏を滅ぼしました。西夏を滅ぼした際、君主と人民を殺害したことで全滅させました。

 

オゴタイハンは1236年以降、ロシアからヨーロッパにかけて積極的に戦闘と虐殺を繰り返します。モンゴル帝国はヨーロッパ侵略をしていましたが、オゴタイハンが急死したことによりヨーロッパの侵略を取り止めました。

 

源義経 鎌倉時代

 

 

1274年と1281年に元が日本を侵略する「元寇(げんこう)」がありました。この時、元の皇帝はフビライハンで、チンギスハンの孫にあたります。日本への出兵に失敗したことや社会不安により元は滅亡しました。その後、モンゴル帝国は1300年から緩やかに解体に向かいました。

 

 

 

織田信長とは?

 

 

織田信長は1534年に尾張国(おわりのくに)で生まれました。信長が生まれた当時、尾張国の守護代織田氏は分裂していましたが、信長が19歳で家督を継ぐと統一しました。統一後の1560年に今川義元(いまがわ よしもと
)
の大軍を桶狭間(おけはざま)の戦いで破ります。

 

馬に乗って戦う若き織田信長

 

桶狭間の戦いの後、美濃国の斉藤龍興(さいとう たつおき)斎藤道三(さいとう どうさん)の孫)を滅ぼし、稲葉山城を中国の故事成語にならって岐阜と改めました。1570年の姉川の戦い、比叡山延暦寺の焼き討ち、1573年の室町幕府の滅亡、一向一揆の弾圧、長篠合戦を経て全国統一の事業を積極的に進めます。

 

燃える本能寺

 

1576年より安土城に入りました。安土城で楽市楽座やキリスト教の布教を認め、畿内の平定を平定し、全国統一は直前となりましたが、1582年に本能寺の変で自害しました。

 

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織田信長はチンギスハンになれたのか?

南蛮胴を身に着けた織田信長

 

織田信長が生きていたらチンギスハンのように世界の覇者になれたのでしょうか。結論を言えばチンギスハンのように世界の覇者になれた可能性があります。

 

鉄砲隊を率いる今川義元

 

信長は今川義元との戦いで鉄砲を使った集団戦法を見た経験があります。

 

寄親・寄子制を導入する今川義元

 

信長は家督を継いだとき、今川義元の寄親寄子制に倣って兵を集めようとしましたが、尾張は小国であるため兵を集めにくい状態でした。兵を集めるために二男・三男以下の男子と交流するようになり直属の家臣にしました。全国を統一し、世界の覇者になろうとすると、信長はフビライハンの代でモンゴル帝国が緩やかに解体に向かう過程を学ぶと考えられます。

 

 

戦国時代ライターオフィス樋口の独り言

三国志ライター オフィス樋口

 

今回はチンギスハンと織田信長について取り上げたうえで、織田信長はチンギスハンのように世界の覇者になる可能性について取り上げました。本能寺の変がなく、織田信長が生きていたらという仮定で取り上げましたが、信長は今川義元の戦いや政治から学習して応用ができるということで、チンギスハンのように世界の覇者になれるという結論に達しました。

 

世界の覇者だけでなく世界で最初の産業革命も成し遂げた可能性や植民地政策の第一線にいた可能性もあります。今後はチンギスハンと織田信長の戦い方にも注目したいと思います。

 

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織田信長スペシャル

 

 

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自己紹介:フリーランスで予備校の講師をしています。 歴史が好きで、予備校では主に日本史を指導しています。 センター試験の点数を40点台から80点台に伸ばした実績があります。 好きな歴史人物:徳川慶喜(理由:多趣味であることが共通しているから)

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