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[陸遜の策略]劉備殺害の真実、その優れた計略とは

2023年6月10日


 

陸遜

 

陸遜(りくそん)といえば夷陵の戦い(いりょうのたたかい)での功績。この戦が印象に残っている読者も多いことでしょう。

 

では、具体的にどんな戦法や計略で陸遜(りくそん)劉備(りゅうび)を追い込んだのでしょうか。

詳しく見ていきましょう。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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蜀の命運を分けた夷陵の戦い

夷陵の戦いで負ける劉備

 

結論から述べると劉備(りゅうび)夷陵の戦い(いりょうのたたかい)に敗れ、白帝城(はくていじょう
)
に逃げ込みます。

 

亡くなる劉備に遺言を聞く諸葛亮と趙雲

 

まもなく本拠地を白帝城に移し、好機を待つのですが、くしくも病気で命を落とします。夷陵の戦いで劉備が敗北しなければ、白帝城で絶命することもなかったでしょう。

 

 

 

一度は陸遜も劉備に追い込まれた?

陸遜

 

鮮やかに勝利したかのように語られる陸遜(りくそん)の夷陵の戦いでの智謀知略。実は初戦で不利な状況に陥っています。

 

陸遜

 

陸遜率いる呉軍は5万。対する蜀軍は1万の異民族軍を送っています。後方に正規軍4万が控えているという状況。

 

陸遜

 

当時、戦いのあった夷陵一帯は夏でした。現在でも中国の三大ストーブと呼ばれるほど酷暑のエリア。

武具を身に付けた軍隊がどれほど苦しかったかは容易に想像できるでしょう。

 

病気になった兵士

 

蜀軍が暑さにやられ、好機と見た陸遜は攻撃に出ます。しかし、戦況は芳しくありませんでした。

夷陵の戦いの前半において、呉軍は形勢不利だったのです。

 

 

 

陸遜のDNA

陸遜

 

軍師・陸遜、脳細胞には様々な計略が浮かび上がります。不利な戦況に陥った陸遜は夷陵の戦いで火攻めを提案します。

 

陸遜

 

蜀の張った陣に火を放ち西へ西へと追いやろうとしたのです。

 

陸遜 剣と刀

 

陣を焼かれては退散するしかないと蜀軍は西へと移動を開始します。その最中、呉の孫桓は挟み撃ちに遭います。

しかし、陸遜は援軍を出さず、必殺技があるので耐えるよう鼓舞するのです。

 

三国時代の船 楼船

 

計ったかのように陸遜は水軍を使って長江(ちょうこう
)
を封鎖。やがて、夷道を死守した孫桓(そんかん)は蜀軍を東西に分断させることに成功します

 

船冒険する諸葛直 船

 

畳み掛けるように陸遜は、夜中に川を上り、40あまりの蜀軍の陣営を焼き払うのです。元は退路を確保するために蜀軍が敷いた陣営。

蜀の陣営が火に弱いと見た陸遜は一夜にして蜀の陣営を殲滅せたのです。

 

沙摩柯

 

蜀軍の被害は甚大で将領・劉寧(りゅうねい)杜路(とろ)は投降。都督(ととく)馮習(ふう しゅう
)
や異民族軍の沙摩柯(しゃまか)は殺されます。

夜中に劉備は包囲を抜け、命からがら潰走(かいそう
)
するのでした。

 

陸遜

 

まさに陸遜一人に蜀の親玉が負けた瞬間だったのです。

呉軍の武将が当初、陸遜の戦略に懐疑的だったことから、陸遜なくして呉軍のビクトリーはなかったでしょう。

 

 

 

陸遜の着眼点

陸遜

 

なぜ、陸遜は仲間の孫桓(そんかん)に援軍を出さず、耐えるよう言い渡したのでしょうか。そもそも大軍での戦いは戦力が分断されることが致命傷につながります。

孫桓が夷道を死守することで蜀軍は東と西の二つに陣営を分断されます。

 

長江は水軍によって封鎖されていますから、前線の部隊は戻ることも進むこともままなりません。

さらに劉備は補給路を確保するためと長江のそばに無数の陣営を作ります。

 

陸遜

 

確かに補給路を確保することは大事ですが、最優先事項ではありません。それよりも兵力が二分される方が痛手となります。

さらに長江が水軍によって封鎖されていることも考慮されていないのです。

 

蜀の皇帝に即位した劉備

 

一般的に兵の移動は陸より水の上を行く方が快適で迅速です。どうして劉備はそれを見抜けなかったのでしょうか。

 

一つに”地の利”をうまく活用していなかったことが挙げられます。専ら地上戦の多い蜀軍は水上戦に弱かったのです。ロシア帝国のバルチック艦隊が大日本帝国の海軍に負けたのに似ています。夷陵を戦いの地に選んだ時点で劉備は負けていたのかもしれません。

 

劉備の跡継ぎは?

劉備

 

夷陵の戦いが西暦222年。劉備が亡くなったのは一年後の西暦223年です。

 

劉備は白帝城をホームにしてから一度も引っ越すことはありませんでした。とどのつまり、劉備は陸遜に寿命を縮められたと言っても過言ではないでしょう。

 

劉禅

 

劉禅が形式の上では跡継ぎになりますが、実質的には諸葛亮(しょかつりょう)が蜀の実権を握ります。曹家のあと、魏の国で牛耳を執ったのが司馬一族(しばいちぞく)であったように蜀でも軍師がナンバーワンになります。

 

 

三国志ライター 上海くじらの独り言

三国志ライター 上海くじら

 

陸遜の計略と劉備の最期をテーマに書きました。戦好きの方は、するすると読めたことと思います。

これを機にマンガの三国志やゲームの三国無双をもう一度プレイしてみるのも一興です。

 

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上海くじら

上海くじら

三国志との出会いは高校生の頃に読んだマンガの三国志。 上海留学中に『三国志演義』の原文を読む。 また、偶然出会った中国人と曹操について語り合ったことも……。 もちろんゲームの三国無双も大好きです。 好きな歴史人物: 曹操、クリストファー・コロンブス 何か一言: 覇道を以って中原を制す

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