陸遜伯言(183~249)は、三国志演義を知る人で知らない人はいないでしょう。
特に、蜀びいきの人にとっては、関羽(かんう)と劉備(りゅうび)を
撃ち破り死に追いやった蜀キラーとして、その名前は脳裏に刻まれていると思います。
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この記事の目次
陸遜の家系はどうなの?
陸遜は、呉の人です、陸家は、呉では、顧家、張家、朱家と並んで、
呉郡四姓の名門として知られていて、陸孫もその名門の出でした。
ただ、本家ではなく、分家筋なので家柄で出世というのは難しい状態にはありました。
陸遜の命運が動き始めるのは、皮肉にも、それが乱世であったからでした。
陸遜一族は孫策によって滅ぼされる
一族を纏めていた陸康(りくこう)は盧江の太守でしたが、
近隣の袁術(えんじゅつ)と食糧を巡り、トラブルを起してしまい、
一族の大半は、戦死してしまい、陸遜は傍系ですが年上である事で、
陸一族のトップとして、宗族を率いていく事になります。
やがて、本拠地である呉郡でも、孫策の勢力が届きますが、
陸遜は若年であり、以前、孫策と陸康が矛を交えた関係でもあるので、
しばらく自重し、孫策が死んで、孫権(そんけん)が呉の当主になると初めて仕官します。
時に陸遜、21歳という若さでした。
海昌の統治を任された陸遜は、温情を持って、領民に接し、干ばつの時には、
食糧を分け与えつつ、農業と養蚕を奨励して生活の基盤を支えさせます。
孫策時代の大きな問題
当時の呉においては、孫策が拡大させた領地に対して、
兵力が少ないという大きな問題がありました。
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孫策は異民族を容赦なく鎮圧
また、武断派の孫策は、異民族を容赦なく鎮圧したので、多くの
異民族は呉を恨んでいて、孫権の体制になっても呉に従わないで、
不穏な動きを見せる者達も大勢いました。
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陸遜は異民族の山越討伐に出る
陸遜は、孫権に願い出て、呉に従わない山越の頭目潘臨(はんりん)を
志願兵を募って、討伐に行き、密林の奥地でこれを撃破します。
この時に、陸遜は山越から2000の兵力を得て、凱旋します。
孫権は、陸遜の鮮やかな手腕を誉め、孫策の娘を陸遜に与えて縁戚にしました。
さらに、孫権は今後の呉について進むべき進路を陸遜に聞きます。
孫権は陸遜に今後の呉の未来を聞いてみた
陸遜:「呉の安定には、山越民族の制圧と軍事力の強化が急務です。
それには、山越民族を滅ぼすのではなく懐柔して味方にして、
これを呉の兵力として活用する事です。
そうすれば、異民族を鎮圧しつつ、軍事力を強化できましょう」
孫権は、もっともであるとヒザを叩いて陸遜をしかるべき地位につけます。
陸遜は若い頃から功績をコツコツと立てていた
その頃、曹操(そうそう)の煽動により丹陽という土地で
費桟(ひさん)という男が反乱を起します。
費桟の軍は、大軍で陸遜は寡兵でしたが、陸遜は冷静で、
夜襲を掛けて費桟の軍を撃ち破りました。
陸遜は、さらに東方の治安の悪い3つの郡で募兵を行いつつ、
呉に従わない人々を懐柔していき、結果、数万という兵力を吸収します。
力に劣るものは、民戸に編入して農民にしました。
陸遜ですが、実は若い頃から実績を積み重ねているのが分かります。
呂蒙も陸遜が跡を継ぐ人物だと確信する
西暦219年、荊州で関羽と対峙していた呂蒙(りょもう)は病を得て、
建業に帰還しますが、その途中で陸遜は呂蒙に面会を願い出て、
関羽を破り、荊州を手に入れる秘策を告げました。
呂蒙は、話を聞くにつれて、陸遜が自分の跡を継いで、
呉を引っ張るに足る人物だと確信しました。
そして孫権に、自分が亡き後は、陸遜を引き立てるように進言します
陸遜は関羽を討ち取る
陸遜は呂蒙の引き立てを受けて、共同で作戦を展開し、
わざと、陸遜は関羽を誉めたたえる手紙を書いて、自分を臆病に見せて
関羽を油断させ、その隙を突いて関羽を討ち取りました。
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陸遜は戦後のアフターフォローも一流
陸遜は、新しく得た荊州の人民に、孫権からもらった金銀財宝を
惜しまず、分け与えて人心を掴みます。
荊州の人々は、こぞって陸遜に協力して蜀の残党や支援者を掴まえるのに
協力したので、捕まえたり、斬ったり、捕虜にした人数は数万に上りました。
このように陸遜は戦が上手いだけではなく戦後のアフターフォローも
万全で、人心を掴むのが得意でした。
反乱の芽も未然に防ぐ陸遜
荊州占領後、新しく加入した荊州出身者が手柄を挙げられないのに
不満を持っているのを知ると、陸遜は、これを孫権に上奏します。
以後、荊州出身者も、内政や軍事に使われるようになり、不満の声は消えました。
こういう、新参者が置かれがちな疎外感にも、陸遜は敏感に目配りをし
反乱の芽を未然に摘んでいたのです。
夷陵の戦いが始まる
さて、呉の呂蒙・陸遜に関羽が討たれた事で、蜀と呉の同盟は反故になり、
劉備は自ら大軍を率いて、荊州に進撃を開始します。
これが、後世に名高い夷陵の戦いです。
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陸遜は大都督として迎え撃つが他将軍と折り合いが合わない
陸遜は、大都督として、これを迎え撃ちますが、陸遜の配下の将軍は、
いずれも、陸遜以前からの名将、猛将揃いでした。
40歳になったばかりの陸遜は、彼等に侮られ、命令違反や、
守ってばかりで、一向に蜀軍に攻勢を掛けない陸遜を「臆病者」
「腰抜け」と公然と非難する人間も現れます。
呉の陣営は大いに荒れて、陸遜は剣を抜いて、これを抑えつける
場面もありましたが、陸遜は孫権が動揺しないように、
このような荒れている呉の陣営の事を報告しませんでした。
火計を駆使して、蜀軍を焼き払う
やがて、劉備が呉の領地奥深くまで進攻して戦線が伸びきると、
陸遜は、攻勢に転じ、火計を駆使して、蜀軍を焼き払います。
魏軍のおかしな様子を察知する陸遜
呉将達は、さらに白帝城を攻撃して劉備を血祭りにあげろと
意気巻きますが、陸遜は不穏な動きをしている魏を警戒し、
深追いを止めて、本拠地に引き上げます。
この陸遜の読みは的中していて、魏は江陵など、三方向から呉に
進攻しますが、これは陸遜の活躍により阻止されました。
陸遜は、その後も魏の曹休(そうきゅう)の大軍を撃破するなど、度々の戦功を立てて、
最期には、丞相にまで出世します。
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丞相にまで出世したが孫権の後継者争いに巻き込まれる
軍事以外でも陸遜は民力の休養に焦点をあて、戦乱で荒れた土地を開墾させ、
厳罰化する法律を緩和するなどの措置を取ります。
しかし、晩年、孫権の後継者を巡る問題に陸遜は巻きこまれます。。
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陸遜の最期
後継者問題では、序列を重んじた陸遜は孫和を擁護しますが、
孫覇を推す派閥は、陸遜の事を孫権に激しく讒言しました。
孫権はこれを鵜呑みにしてしまい陸遜を罵倒する手紙を送ります。
忠臣だった陸遜は、この手紙を読んで屈辱から体調を崩し憤死しました。
三国志ライターkawausoの独り言
陸遜は、内政も軍事も出来るバイプレイヤーで、重圧にも強く、
よく孫権を補佐して呉を支え、呉が魏に吸収される事を防ぎました。
ですが、最期には、後継者問題に巻き込まれて忠義を尽くしてきた
孫権に罵倒されて亡くなるとは哀れとしか言えませんね。
今日も三国志の話題をご馳走様でした。
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