『水滸伝』は明(1368年~1644年)の時代に作られた小説です。中国では『三国志演義』に匹敵する人気を誇っております。
モチーフは北宋(960年~1127年)末期の小規模な反乱です。今回は『水滸伝』の時代背景である北宋第8代皇帝徽宗朝の政治混乱の原因となった「王安石の新法」関して解説します。
名君 神宗と王安石
治平4年(1067年)に北宋第5代皇帝の英宗が亡くなりました。すぐに、子の趙頊が即位しました。
これが第6代皇帝の神宗です。神宗は18歳の若さで即位しましたが、即位当初から非常に政治に熱心な皇帝でした。日本で例えるのなら、徳川吉宗のような人です。
神宗は早速、地方によい人材はいないか探しました。その結果、王安石という男に目をつけました。王安石は以前から地方政治で実績を挙げており、また中央にも意見書を出していました。意見書に目を通した神宗は、王安石を宰相に登用する決意をしました。
次々と新しい法律を制定する
登用された王安石は、神宗や部下と一緒に色々と考えました。神宗と王安石が生きた時代は、中流階級が没落して「金持ち」と「貧民」の差が激しい時代でした。今の日本にそっくりな時代でした。
農民・商人・兵士・・・・・・王安石は身分を問わずに様々な人の保護を考えてあげるための新しい法律・・・・・・「新法」を制定することにしました。自分の利益ではなく、他人のためでした。詳細な法律は今回省きますが、完成した法律を施行した結果、民は喜んだので大成功でした。
廃止される新法
ところが、新法に反対したのが王安石より昔から務めている先輩官僚や大商人でした。彼らは新法が自分たちに不利な内容ばかりだったので、一斉に王安石を攻撃しました。しかし、王安石は負けておらず向かってくる相手は全て口で負かしました。
反対する人は文句を述べるだけで、対抗策が無かったのです。だが、王安石も次第に不利な状況に追い込まれました。自身の協力者のほとんどが、反対者に回ったのです。彼らは親族やパトロンから注意を受けると、ビビッて反対者に回ったのです。
その後、王安石は圧力に負けてしまい失脚しました。失脚後、王安石の新法は次々と廃止されました。
復活する新法
神宗と王安石の死後、政権はしばらくの間は王安石の反対者が握ります。王安石系の人々を「新法党」と呼び、反対していた人々を「旧法党」と呼びます。ところが、今度は旧法党で内部争いが始まりました。見てられないと思ったのが、北宋第7代皇帝哲宗でした。彼も父の神宗と一緒で名君でした。
すぐに新法を復活させました。こうして、新法党の人々が政権を握りますが、彼らには王安石のような政治理念はありません。どっちが、政権をとるかで必死なのです。1番迷惑だったのは民です。
政権が変わるたびに、すぐに法律を変えられていたので、もうコリゴリです。
そして徽宗朝へ
哲宗は元符2年(1099年)に亡くなり、徽宗が後を継ぎました。徽宗も当初は新法党と旧法党の調停に努力しました。しかし毎日のように目の前で、悪口の言い合いばかり見せられるので徽宗も嫌気がさしてきました。
とうとう、政治は宰相の蔡京に任せました。蔡京は表向きは新法党ですが、自分への風当たりが悪くなると、すぐに旧法党に鞍替えすることを繰り返した調子のよい人間です。こんな人間がトップなので、政治が上手くいくはずがなく、北宋はとうとう滅亡への一歩を進みます。
宋代史ライター 晃の独り言
以上が『水滸伝』の時代背景である徽宗朝の混乱の原因である「新法党・旧法党」の争いでした。日本には多数の王安石研究が存在しており昭和の一時期は、ほとんどがそれで占めていたのです。
ただし、それのせいで南宋(1127年~1279年)の研究が遅れたことも事実です。
※参考文献
・佐伯冨『王安石』(初出1941年 後に中公文庫 1990年)
・東一夫『王安石 革新の先覚者』(講談社 1975年)
・東一夫『王安石と司馬光』(沖積舎 1980年)
・木田知生『司馬光とその時代』(白帝社 1994年)
・小林義廣『王安石 北宋の孤高の改革者』(山川出版社 2013年)
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