天文18年(1549年)イエズス会のフランシスコ・ザビエルがキリスト教布教に上陸してより日本にはキリスト教が入ってくる事になります。従来の歴史では日本は多神教の国であり、一神教を標榜するキリスト教は思想的に相容れなかったとされてきました。
しかし、最近では戦国日本には価値相対主義的な多神教だけでなく一神教的な天道思想もあり、キリスト教は決して異端の扱いではなかったようです。
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簡単にキリスト教に改宗しない思慮深い人々
どんな時代でも世の中が混乱すると新興宗教が流行るものですが、戦国時代の京都の人々は、そうでもなかったようです。
安土桃山時代に日本に来て、キリスト教を伝導していたルイス・フロイスは、以下のように記録しています。
「己の宗派に甚だ詳しく、学識も深いので田舎の人と言えど、キリシタンになる為に
来という者はいまだかつてなく、むしろ彼らが通常目的としているのは、
ひたすら聴聞する事である」
1566年6月30日書簡
当時の日本人は田舎から出てきた人でもキリシタンになりたいとやってくる人はなく自分達の信仰する宗教にも詳しく、キリスト教の教えを
ひたすら聞いて自分達の宗教と比較検討する事を面白がっていたようです。
戦国日本人の知的なレベルはかなり高く、知識欲が旺盛であり、小手先の勧誘で信者は増えないとルイス・フロイスは理解したのかも知れません。
イエズス会が目をつけた天道思想
そこで、イエズス会は方針を替え、当時の日本人の思想の中でデウス信仰に近い物を探します。その結果、彼らが見出したのが天道思想でした。
天道思想とは、人間の禍福や政治権力の移り変わりを決定する絶対的な存在を意味し簡単に言うと悪い行いには天罰が下り、善い行いには天の加護があるという考えでした。
中世宗教史を専門とする神田千里氏は、天道思想をある意味で極めて一神教的な発想と位置付けています。個人の道徳観念と超自然的な摂理を結び付ける考えは唯一神デウスを絶対神とするキリスト教的な考えと表面上は共通していたのです
戦国大名に見られる天道思想
天道思想が当時の戦国大名に広く受け入れられた例には1575年に上杉謙信が、北条氏政と戦うまえに神前で記した神文から見る事が出来ます。それには、不法な行いを重ねる氏政は天道や神慮を知らず神仏の罰を受けるのは当然で、逆に謙信は善悪を弁えていて天道に背く事がない、どうか氏政一党を退治できるように等の内容が書かれています。
また、北条早雲が家訓として残した早雲寺殿二十一カ条には、拝む事は身の行いで心をまっすぐに柔らかにして正直になること目上の者を敬い、目下には憐れみをかけて虚栄心を張らず、慎ましく素朴に生きていく事こそが神仏の御心に適い、そのように生きていれば、例え祈らなくても神仏の加護に守られると書いています。逆に心が歪んでいれば、いくら熱心に祈りを捧げても神仏に見放されるとしていて、個人の行いこそが、天に通じて禍福を産み出すという天道思想の影響があるのです。
日葡辞書に残る天道の用語
かくして、イエズス会は非常にリテラシーが高い戦国日本人への布教に対し、デウス信仰を天道思想として布教する事を意識的に取り入れます。
1603年に長崎のイエズス会で発行された日葡辞書は、室町から安土桃山時代の日本の言葉を32800収録し、口語体や発音方法も記載される
日本語辞書ですが、そこには、tentôの項目があり、
「天の道、ないし(天の)秩序と摂理と」
とあり、さらに続けて
「天道」はデウスと同じものであるが、日本人たちはそこまで気づいていない
という解説を繋げています。
ここから見ても、イエズス会がデウスと天道を同一視して布教を容易にし、信者を増やそうと考えていた事が分かります。
キリシタン大名も自らの神を天道と理解した
このような天道とデウス信仰の同一視は、キリシタン大名にも影響を与えています。
例えば、天正4年(1576年)にキリシタン大名の大村純忠が龍造寺氏に宛てた起請文には、
「もし盟約を破れば、天道のガラサ(ポルトガル語の恩寵)を離れ子々孫々にわたり罰を受けるであろう」と書かれています。
天道とガラサが並ぶ点から見て、大村純忠がイエズス会の掲げたデウス信仰と天道の同一を違和感なく受け入れていた様がうかがえるでしょう。
参考:最新研究が教えてくれる あなたの知らない戦国史
戦国時代ライターkawauso編集長の独り言
従来、キリスト教的な一神教の概念は日本には受け入れられなかった、日本は規律が緩く大らかな多神教の民族であると言われていました。しかし受け入れられなかった筈のキリスト教の信者は最盛期には30万人を超えています。当時1500万人とされる日本の人口の2%がキリシタンになっていた事になり、そこには熱心な布教以外にキリスト教と天道思想に近似性があったと考えてもおかしくはないのではないでしょうか?
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