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日本一の適当将軍[足利尊氏]はどうして天下を取れたの?

2023年9月11日


鎌倉幕府を裏切り室町幕府を築いた将軍・足利尊氏

 

 

室町幕府は、鎌倉幕府や江戸幕府に比べて不安定なイメージですよね?実は幕府を不安定にしたのは室町幕府を起こした初代将軍足利尊氏がとてもいい加減な人物だった点に大きな影響を受けているのです。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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河内源氏の流れを汲む足利氏に誕生

下総

 

足利尊氏は1305年(嘉元3年)に鎌倉幕府の御家人足利貞氏の次男として生まれます。足利氏は河内源氏の流れを汲む名門武士で執権北条氏にも重んじられますが、その血筋の良さゆえに常に警戒されていました。また北条氏の政治は全国の守護職の半分を北条一門で占めるような自分勝手なものになって堕落していたので尊氏は早い段階から鎌倉幕府に嫌気がさしていたようです。

 

 

後醍醐天皇に味方し鎌倉幕府を滅ぼす

討死する坂東武士(モブ)

 

1333年、隠岐に流されていた後醍醐天皇が島を脱出し伯耆の国船上山で倒幕の狼煙を挙げます。鎌倉幕府は足利尊氏に大軍を与えて後醍醐天皇を捕らえるように命じますがすでに天皇から倒幕の密命を受けていた尊氏は、討伐に向かうように見せておいて丹波国篠村で寝返り、全国の御家人や武士に倒幕を呼びかけます。鎌倉幕府ナンバー2の足利尊氏の挙兵に全国の武士が呼応、尊氏は合流してきた武士団と京都の幕府機関、六波羅探題を滅ぼし、次に鎌倉で新田義貞が蜂起。150年続いた鎌倉幕府はあっさりと滅亡しました。

 

 

鎌倉に留まり天皇に叛く

軍議(日本史)モブb

 

後醍醐天皇は幕府を廃止して鎌倉幕府成立以前の天皇を中心とした政治を開始します。しかし建武の新政は天皇と取り巻きの貴族に権力が集中し命懸けで鎌倉幕府を倒した武士には僅かな恩賞しかありませんでした。不満を募らせた武士たちは建武の新政の立役者である足利尊氏を慕っていきます。1335年、鎌倉で北条氏の残党による中先代の乱が発生。尊氏は討伐に向かいますが、その途上で天皇に征夷大将軍に任命してくれるように頼みます。しかし尊氏が幕府を開く事を警戒した天皇は拒否やむなく尊氏はそのまま鎌倉に向かい乱を鎮圧しますが、京都には帰らず留まり鎌倉で手柄のあった部下に恩賞を与え始めました。

 

 

尊氏は出家して許しを請うが直義に引きずられ挙兵

公家同士の会議(モブ)

 

この尊氏の行動に後醍醐天皇は尊氏が自分の幕府を起こすつもりだと激怒新田義貞に命じ尊氏の討伐を命じます。天皇に朝敵認定された尊氏は激しくうろたえ頭を剃って出家するので許して下さいと降伏を願い出ます。ところが弟の足利直義は降伏を拒否し新田義貞と戦い出したので、尊氏は渋々、天皇との戦いを決意しました。

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

後醍醐天皇の建武の新政はすでに全国の武士の信頼を失っていたので尊氏が行くところには大勢の武士が集結。後醍醐天皇の軍を撃破します。天皇は敗北を認めて光明天皇へ譲位し和睦。尊氏は1338年光明天皇により征夷大将軍に任命され京都に室町幕府を開いたのです。

 

幕府を開いた途端、弟直義と対立

鶴岡八幡宮 建物 モブ

 

しかし、幕府を開いた途端、今度は、足利尊氏と弟の足利直義の対立が表面化します。尊氏は足利家の軍事を担当する高師直を味方に引き入れ観応の擾乱と呼ばれる内乱に発展しました。

 

 

後醍醐天皇も吉野で天皇に再即位

朝廷(天皇)

 

この体たらくを見て吉野に逃れた後醍醐天皇は「光明天皇に渡した3種の神器は偽物でホンモノはこちらにある」として再度即位。ここに日本は京都の北朝と吉野の南朝に2人の天皇が並立する南北朝時代を迎えます。それとは無関係に尊氏と直義の戦いは続き双方が北朝だけではなく認めていない筈の南朝の権威まで利用するしっちゃかめっちゃかな状態が続きます。

 

直義を毒殺するが混乱は終わらず

暗殺(毒殺)モブ

 

最終的に直義を倒して幽閉した尊氏ですがすでに尊氏派と直義派の溝は修復不可能で1352年、尊氏は直義を毒殺し事態を清算します。ところが、直義が死んだ後も南朝方の残党や直義の後継者を名乗る足利直冬が各地で蜂起。間もなく尊氏は死の床につきますが南北朝の騒乱は収まらず50年以上も続くのです。

 

 

大雑把でいい加減な尊氏の性格

切腹詐欺の徳川慶喜

 

足利尊氏は生まれつき恐怖心が薄く、どんな戦場でも薄っすらと微笑みをたたえていたそうで、尊氏の配下はいつも安心して戦う事が出来ました。一方で尊氏は、恐ろしく諦めが早く、戦況が悪くなると切腹すると言い出し何度も部下に止められています。また、尊氏は金銭にも淡泊であり金でも銀でも領地でも惜しげもなく手柄があった部下に与えました。そのため、尊氏の部下は恩賞のためにいつも全力で戦い尊氏軍は強かったのです。

 

尊氏の気前の良さが幕府の弱さに

日本史12 金閣寺

 

ただし、尊氏は極めて大雑把な性格で一つしかない土地を複数の部下に与える事も度々でした。そのせいで室町幕府は、いつも土地を巡る訴訟を抱えて苦労していたようです。それに尊氏が気前よく守護大名に土地を与えたせいで足利幕府の領地は京都以外にはほぼなく幕府財政は守護大名や商人、寺社に税金をかけて確保していました。そのため将軍の軍勢は少なく大規模な反乱が起きると守護大名の力を借りざるを得なくなり江戸幕府のように幕府権力で諸大名を押さえつけるのは不可能でした。これらの事は結局、初代将軍足利尊氏の気前の良さや大雑把さに由来すると言えるのです。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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