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足利義輝はどんな人?実は汚い手段もバリバリ使う[剣豪将軍]

2023年9月14日


足利義輝

 

2020年の大河ドラマ麒麟が来るで向井理が演じて以来、人気急上昇な足利義輝。最後は切り合いの末に討ち死にを遂げる剣豪ぶりも人気の秘密ですね?でも、足利義輝は決して剣の腕だけの脳筋将軍ではなかったのです。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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将軍足利義晴の嫡男に生まれる

鶴岡八幡宮 建物 モブ

 

足利義輝は1536年(天文5年)に12代将軍、足利義晴の嫡男として誕生します。義輝の生母も関白近衛尚通の娘の慶寿院であり、義輝は本来なら文句なしのサラブレットとして将軍に就任するハズでした。しかし、時は戦国時代、将軍家の力は地に落ち、代わって管領の細川晴元が全てを取り仕切っている有様。義晴は晴元に何度も負けて京都を追い出され、近江坂本に逃げていました。1546年(天文11年)義輝は近江坂本で11歳で将軍職を譲られ13代将軍に就任します。

 

 

京都に戻るも今度は三好長慶が立ちはだかる

戦国時代最初の天下人・三好長慶

 

1548年、勢力が低下していた細川晴元は義晴と和睦。義輝は京都に帰還する事が出来ました。ところが今度は、細川晴元の重臣、三好長慶が晴元を裏切り晴元に敵対する細川氏綱の陣営についてしまいます。1549年晴元は江口の戦いで三好軍に敗北。義晴と義輝はまたも近江国坂本に退避する事になりました。

 

炎上する城a(モブ)

 

 

翌年、健康を害していた義晴が病死。14歳の義輝は父が建設を進めていた中尾城で三好軍と対峙しますが勝ち目は薄く城を焼き払うと堅田に逃れます。その後も義輝は何とか京都に帰還できるようアプローチしますが失敗。近江坂本も危なくなったので、さらに北の朽木に逃れる事になります。

 

 

三好長慶暗殺を狙う義輝

暗殺(寝ているシーン)モブ

 

 

追い詰められた義輝は、将軍らしからぬ方法で三好長慶を排除しようとします。部下の進士賢光を京都に送り込み三好長慶を暗殺しようとしたのです。しかし暗殺は失敗しました。敵を排除するには手段を選ばない義輝、素敵です。

 

 

 

三好長慶と和睦して京都に戻る

参勤交代

 

暗殺が失敗した義輝は方針転換。1552年正月に三好長慶と和睦して京都に帰還しました。しれっと書いていますが、自分を暗殺しようとした義輝と和睦する長慶もスゴイですね。ちょっと普通じゃありません。義輝は三好長慶を幕臣として取り込み、長慶が推す細川氏綱に細川京兆家の家督を継がせるなど融和の姿勢を見せます。しかし、義輝側近の上野信孝が台頭、三好長慶の派閥と激しい権力闘争を開始しました。

 

馬に乗り落ち延びる明智光秀

 

義輝は、上野信孝を擁護し、信孝追放を進言する親三好氏の勢力の言う事を聞かず細川晴元と和睦、三好長慶との絶縁を宣言します。ところが合戦ではやっぱり敗北。義輝は朽木氏を頼って近江朽木に逃れ、以後、5年間京都に戻れませんでした。

 

 

1558年に再び和睦

軍議(日本史)モブb

 

1558年(永禄元年)22歳の義輝は近江の六角義賢の仲介で三好長慶との和議を成立させます。上洛した義輝は御所で将軍として執務、今度は三好長慶や松永久秀のような勢力を上手く取り込みました。ここから義輝は乱世の将軍としての稀有な才能を発揮します。三好氏や六角氏の勢力を背景に将軍の権威を強化すべく、諸国の戦国大名に使いを出し合戦を仲裁したり官位を与えたりしたのです。

 

上杉謙信

 

 

衰えても足利将軍、その将軍から官位を得たり、片諱を得た地方の戦国大名は大いに満足し義輝への忠誠を強めます。例えば、義輝が京都に戻った1558年には越後の長尾景虎や美濃の斎藤義龍、尾張の織田信長などがこぞって上洛しています。これこそが義輝の狙いであり武力を使わずに将軍の権力を高める作戦でした。さらに、義輝にとっては都合のよい事に三好長慶が弟や息子の相次ぐ死に気落ちして健康を害し1564年(永禄7年)に病死します。義輝はこれを契機に三好氏の勢力も削ぎ、将軍としての威光は揺るぎないものになる筈でした。

 

 

永禄の政変で討ち死にを遂げる

逃げ回る足利義昭

 

 

ところが三好長慶の死は足利義輝の転落でもありました。義輝との調和を図った長慶とは違い、後継者となった三好義継や、松永久秀の長男松永久通、三好三人衆は権力を強めていく義輝を嫌い、1万の兵力で御所を包囲、義輝に対し将軍職を叔父の足利義維に譲るように迫ったのです。義輝はこの要求を拒否、百名あまりの手勢で1万の三好・松永連合軍と戦い多くの敵兵を斬った後に壮烈な討ち死にを遂げました。

 

 

戦国をしぶとく生きた将軍

東京スカイツリー、kawausoさん

 

足利義輝は将軍の地位を守るために手段をえらばない人物の感じがします。でも、キレイゴトを言って計略には為す術がない純粋まっすぐな将軍よりも、悪も為すし業も受け入れる義輝の方に魅力を感じる人も多いのではないでしょうか?

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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