幕末から明治初期にかけての偉人であり、討幕や廃藩置県のような大事業を成し遂げた鹿児島の英雄、西郷隆盛。西南戦争で死去してから150年近くが経過しても大柄ながら温和で愛嬌のある人柄で西郷どんと愛称で呼ばれる事が多い人物です。そんな西郷どんは体が大きく太っているイメージで実際に大柄で太っている男性は西郷どんと呼ばれたりします。しかし、本当の西郷どんは常に太っていたわけでもなく50年の生涯で激やせと激太り、そしてダイエットを経験していました。
若い頃は筋肉質でイケメン
西郷どんは1828年(文政10年)に鹿児島県の下級武士の家に生まれます。子どもの頃から大柄な西郷どんですが西郷家は貧乏子だくさんでした。長男で育ち盛りの西郷どんは兄弟たちと少ないご飯を分け合い太れるほどお腹いっぱいは食べられなかったようです。やがて、島津斉彬が薩摩藩主となると西郷どんは引き立てられ江戸に上って、斉彬の代理として諸大名との連絡役を勤めます。
この頃の西郷どんは長身の筋肉質でいつも清潔で立派な身なりをしていて江戸や京都の言葉にも堪能なためとても、モテモテだったそうです。また、13代将軍、徳川家定に輿入れした天璋院篤姫の嫁入り道具は西郷どんが選定して用意したそうで美術品の目利きもできました。
斉彬の死去で運命が暗転
西郷どんが仕えていた島津斉彬は病弱な13代将軍徳川家定の後釜として英名の誉れ高い、水戸の一橋慶喜を推していて西郷どんも慶喜を将軍とすべく政治活動をしていました。しかし、そんな矢先斉彬は鹿児島で軍隊の調練をしている時に体調不良を訴え急死します。斉彬の死は先の藩主である島津斉興か、斉彬の弟である島津久光の配下による毒殺と考えられています。
それと同時期に幕府では井伊直弼が大老に就任。14代将軍を紀州の徳川家茂に決定すると一橋慶喜を推していた人々を反幕府勢力として一斉逮捕します。世にいう安政の大獄です。西郷どんも容疑者となったので薩摩藩は西郷どんが自殺した事にして奄美大島に匿いました。
島津久光を激怒させ沖永良部へ
それから2年あまり西郷どんは奄美大島で暮らしますが新しく薩摩藩で実権を握った藩父、島津久光に呼び戻されます。ところが西郷どんは久光が大嫌いで斉彬を毒殺したのも久光一派だと信じていました。当然、久光と西郷どんはかみ合わず久光は西郷どんが命令に背いて勝手な行動をしたとして沖永良部に罪人として流してしまいます。
栄養失調で激やせ
罪人として沖永良部に送り込まれた西郷どんは壁もない狭い牢屋に押し込まれ冬でも布団一枚もらえずわずかなお粥と塩だけで命を繋ぐ、過酷な生活を強いられました。西郷どんは激やせし健康を害しましたが、島の役人、土持政照は西郷どんの人となりを見て決して罪人ではないと確信。処罰される危険を冒してまで西郷どんを野外の牢屋から自宅の座敷牢へ移します。
豚になった西郷どん
土持政照の献身的な介護で健康を取り戻し三食食べられるようになった西郷どんはどんどん肥り始めます。それは西郷どんが罪人扱いで外に出して、運動させるわけにはいかないからでした。沖永良部に流されて1年あまりで西郷どんは呼び戻されますが運動不足と肥満により足腰が極端に弱り、主君である斉彬の菩提寺にも階段を這うように昇ったそうです。
肥満は悪化する
さて、薩摩藩に戻ってから数年で討幕、明治維新を成し遂げた西郷どんですが管理職になりデスクワークが増えたせいで肥満は深刻になっていきました。元々、西郷どんは甘いものと脂っこいものが大好物でしたから放置しておけば肥満が進行するのは必然だったのです。陸軍大将まで昇進した西郷どんですがお腹に合うような革ベルトがなく仕方なく兵児帯を巻き、また少し歩くと内ももが擦れて「股ずれ」を起こし歩けなくなるなんともみっともない状態になります。
ついにドクターストップが
さらに明治6年頃には中性脂肪とコレステロールのせいで不整脈がでるようになりドイツ人医師、ホフマンにより痩せないと命にかかわると宣告されました。ホフマンは炭水化物を控えて運動する事を西郷どんに勧めます。そこで西郷どんは、犬を飼いまだ山野が多く残る東京で兎狩りをして汗を流します。有名な上野の西郷像が犬を連れているのは散歩ではなく、兎狩りの途中なのです。
筋肉質の姿に戻った西郷どん
西郷どんは征韓論争に敗れると故郷の鹿児島に帰り私学校を建設して後輩の指導にあたります。故郷に帰った後も、兎狩りの習慣は続き晩年の西郷どんは以前のような引き締まった筋肉質の体に戻っていました。このように人生の後半で肥ったり痩せたりしている西郷どんもしかして西郷どんの顔がよく分からないのも急に肥ったり痩せたりして西郷どんの顔つきが変わったせいかも知れませんね。
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