今回は井伊直政について取り上げます。2017年の大河ドラマ『おんな城主直虎』で、井伊直政が遠江国の井伊谷の所領を回復するために活動していたことを思い出した人がいるかもしれません。
また、井伊直政についてはイケメンだったといわれ、そのエピソードも伝えられています。この記事では、前半で井伊直政の生涯について紹介します。後半ではイケメンに関するエピソードを紹介します。
井伊直政とはどんな人?
井伊直政は1561年に遠江国の井伊谷城主の井伊直親の嫡男として生まれました。直政が2歳の時、城主の井伊直親が謀反の疑いをかけられ殺害されました。当時、直政が幼かったため同族に身を隠しながら養われました。
1575年に徳川家康に謁見し、家臣になりました。井伊谷2000石を回復し、戦いでは数多くの武功を挙げました。武田家が1582年の天目山の戦いで滅亡すると、徳川家康は武田信玄・勝頼の家臣を数多く抱えました。理由として、三方ヶ原の戦いで家康が大敗したことで武田信玄の軍学を参考にしたことが挙げられます。
井伊直政には武田信玄の家臣だった飯富虎昌の赤備えが付属され、井伊の赤備えと呼ばれるようになりました。その後、戦功を重ね続け、徳川四天王の1人となりました。
1590年に関東の北条氏を滅ぼし、豊臣秀吉が天下統一を果たすと、徳川家康は関東に移されました。それに伴い、井伊直政は上野国の箕輪城の城主となりました。
1600年、関ヶ原の戦いで徳川家康が率いる東軍に加わります。
薩摩の島津義弘の軍を追撃したときに鉄砲に撃たれました。負傷しましたが、即死することはありませんでした。関ヶ原の戦い後に彦根城を築城しましたが、鉄砲の傷が原因で1602年に死亡しました。
以降、井伊家は江戸幕府が終わるまで彦根藩主を務めました。
井伊直政は本当にイケメン?
井伊直政はイケメンだったというエピソードは伝えられています。当時、戦国武将の間では衆道が流行っていました。衆道とは武士の中で男性の同性愛のことをいいます。
例えば、戦国武将では織田信長と森蘭丸の関係が有名です。他にも武田信玄と高坂弾正の関係が挙げられます。
徳川家康は衆道をあまり好まなかったようですが、井伊直政とは衆道の関係にあったといわれています。2017年の大河ドラマ『おんな城主直虎』で、衆道を想像させるシーンがあったことを思い出す人がいるかもしれません。
井伊直政はイケメンだったため、徳川家康だけでなく同僚からも衆道の誘いを受けたといわれています。
戦国時代ライターオフィス樋口の独り言
今回は井伊直政について取り上げました。前半では井伊直政の生涯について紹介しました。井伊直政の生涯を振り返って、2017年の大河ドラマ『おんな城主直虎』で井伊直親の死後、おんな城主として井伊直虎が井伊家の跡を継いだことを思い出しました。この記事の読者で、同じようなことを思い出した人がいるかもしれません。
後半では井伊直政がイケメンであるとエピソードを紹介しました。エピソードとして徳川家康や家康の家臣から衆道の誘いを受けていることが分かりました。
2017年の大河ドラマ『おんな城主直虎』で、菅田将暉が井伊直政役だったことについて、イケメンという理由で納得できます。
他の大河ドラマで、井伊直政役を演じた俳優では、2006年の大河ドラマ『功名が辻』では篠井英介、2014年の大河ドラマ『軍師官兵衛』では東幹久などが挙げられます。
最後に、井伊直政のイケメンのエピソードで衆道について取り上げました。衆道については武士だけでなく、平安時代から貴族の間で出世の手段として用いられていたといわれています。衆道と主従関係との関連性にも注目したいと思います。
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