[桶狭間の真相]織田信長の勝利、実は勘違い?

2023年10月6日


織田信長

 

織田信長(おだのぶなが)の最も印象的な合戦と言えば、桶狭間(おけはざま)の戦いを挙げる人は多いでしょう。3万とも5万とも言われる今川義元(いまがわよしもと)の兵力を10分の1の手勢で迎え撃ち情報を駆使して本陣の場所を特定し一気に義元の首を獲った織田信長。

 

若き頃の織田信長に敗れる今川義元

 

情報収集力によって圧倒的な劣勢を覆したその鮮やかな勝利はビジネスにも通じるとして織田信長を優秀なビジネスマンに例える専門家も多いです。しかし、事実は小説より奇なり、この桶狭間の勝因は情報戦でもなんでもない、ただの偶然と勘違いの産物であると最近では言われているのです。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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桶狭間の戦い わかりやすく

虎といちゃつく織田信秀

 

桶狭間の合戦をわかりやすく解説します。信長の父の織田信秀(おだのぶひで)は1548年第二次小豆坂の戦いで今川軍の太源雪斎(たいげんせっさい)に大敗。さらに第三次安城合戦で安祥城(あんじょうじょう)を失い、西三河の勢力を大きく失います。

織田信長と喧嘩をする織田信勝

 

その上、当主信秀が急死し、織田家では嫡男の信長と弟の信行が後継者争いを開始。尾張の織田家は動揺し、鳴海城(なるみじょう)笠寺城(かさでらじょう)大高城(おおだかじょう)沓掛城(くつかけじょう)が寝返り今川につきました。織田方も黙って見ていたわけではなく、笠寺城を奪還し大高城の周囲には砦を築いて厳戒態勢を敷いていきます。

 

若い頃の徳川家康(松平元康)

 

1560年、今川義元は織田家を併呑すべく、松平元康(まつだいらもとやす)徳川家康(とくがわいえやす))を先発隊として出陣し、自身は沓掛城に入り大高城に兵糧を運び込んで、三河勢を弾除けに使いながら織田領内深く侵攻、信長は清州城に籠城するか、打って出るかの選択を迫られるのです。

 

 

 

織田信長動く

織田信長

 

今川勢が織田家領内に入っても動かず、眠っていた信長ですが、徳川家康と朝比奈泰朝(あさひなやすとも)鷲津砦(わしづとりで)丸根砦(まるねとりで)を攻めたと聴くと飛び起き行動を開始します。人間五十年の歌詞で知られる幸若舞(こうわかまい)敦盛(あつもり)」を舞うと準備を整えて清州城を出陣。

 

足軽a-モブ(兵士)

 

僅か五騎程度の供回りで熱田神宮に到着、その後到着した軍勢を纏めて戦勝祈願をし鳴海城を囲む砦である善照寺砦に入り、そこで2000から3000人を得ました。丸根と鷲津の砦はある程度の時間稼ぎをしてから陥落します。その頃、大高城周辺の鎮圧に成功した今川義元の本隊が沓掛城を出発。最初は大高城の方面に進み、その後、南に進路を取り桶狭間に向かいます。

 

佐久間信盛

 

信長は今川の軍勢が桶狭間に向かった事を知り、善照寺砦に佐久間信盛(さくまのぶもり)以下500を残し2000の手勢で桶狭間に向かい出発します。

 

 

信長は桶狭間にいるのが義元本隊だと知らなかった!

今川義元

 

その頃、中嶋砦で今川軍に備えていた佐々政次(さっさまさつぐ)千秋四郎(せんしゅうしろう)のような300名余りの騎馬は信長本隊が、やってきたことで勢いづき、信長の下知を待たずに抜け駆けを開始し、義元本隊に攻撃を開始します。ですが、今川義元の本隊、5000名には勝てず包囲されて佐々政次等50名余りが戦死しました。信長はその様子を見ていましたが、佐々政次等を討ったのが今川の本隊とは知りません。鷲津砦や丸根砦を落とした今川の支隊だと思っていたようです。

 

「あの今川の部隊は砦を落としたばかりで労兵に違いない、こちらは新手だ、迷わずに前進すれば打ち破れるぞ」

 

こうして信長は部隊に突撃の命令を出し、それが今川義元の本隊だとは夢にも思わず田楽狭間と呼ばれるポイントへ殺到します。

 

信長公記_織田信長_書類

 

よく知られる信長が義元の本隊を確認して大きく迂回し側面を突き奇襲したという話は当時の歴史書、太田牛一の信長公記にはなく、それより50年程後に小瀬甫庵(おぜほあん)が信長公記を下敷きに書いた甫庵信長記に盛り込まれたフィクションなのだそうです。

 

 

その時、突撃した織田軍に偶然、(ひょう)混じりの大雨が降り、辺りは白一色の土砂降りに包まれます。今川軍は織田軍が突っ込んでくるのに気づかず初動が遅れました。

 

 

桶狭間の戦いの勝因は勘違いと運

 

信長はこうして勘違いしたまま、今川義元の本隊に突撃。戦闘は乱戦になり、双方馬を降りて刀や槍を振う大混戦になります。かくして今川義元は300名余りの旗本騎兵に守られて退却する途中、信長の馬廻りに追いつかれ善戦空しく毛利良勝(もうりよしかつ)という無名の武者に討たれました。

 

足軽b-モブ(兵士)

 

こうして信長は何も知らない間に義元を討ち取り、大将を討たれた今川軍は総崩れで故郷に向けて逃げて行ってしまったのです。もう情報戦もへったくれもありません。逆に、田楽狭間に今川の本隊がいると知ったら信長は躊躇(ちゅうちょ)して攻めなかったその可能性さえあると言えるでしょう。

 

鼓膜が破れる程声がデカい織田信長

 

信長は今川軍が桶狭間に向かった事は知っていましたが、それが義元本隊とは気づかずおまけに、田楽狭間に駐屯していた部隊を砦を攻め落として疲労していた今川軍の労兵だと勘違いしました。だから安直に「簡単に勝てる」と踏んでよく考えずに真っすぐ直進し大勝利したのでした。

 

参考:日本軍事史 吉川弘文館 178pからのコラム

 

 

戦国時代ライター編集長の独り言

戦国時代ライター編集長の独り言

 

世の中には、一発屋やビギナーズラックのような幸運な人がいます。まさに信長は、人生最大の窮地を運と勘違いで切り抜けたのでした。しかし通常、一発屋は一発屋で消えていきますしビギナーズラックは続きません。一方の信長は、この幸運を無駄にせずに活かし着々と天下への階段を築いて、戦国大名としての地盤を固めていきました。桶狭間の勝利は運でも、それを最大限に利用してのしあがった信長は幸運を活かしたまぎれもない名将だったのです。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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