上杉謙信といえば天下統一を狙わなかった戦国武将として有名です。敵の武田信玄が塩に困っているのを知ると塩を送ったことでも有名です。後に「敵に塩を送る」という言葉が、敵が苦しんでいるときに逆にその苦境から救うという意味で使われるようにもなりました。今回は上杉謙信の生涯について生き方の原点となった出来事について取り上げます。
越後国の戦国大名になるまでの長尾景虎(後の上杉謙信)とはどんな人?
1530年に越後国上杉氏の守護代長尾為景の四男として生まれました。長尾為景の跡を長尾晴景が継ぎましたが、病弱で頼りなく越後国内では争いが絶えませんでした。晴景は春日山城の山麓にある林泉寺で修行していた四男の長尾景虎を呼び戻しました。結果、越後国を統一することができました。
後に景虎は長尾家を継ぎ、越後国の戦国大名となりました。関東管領の上杉憲政が北条氏康との戦いに敗れ、越後国に逃れました。上杉憲政が長尾景虎に関東管領を譲り、上杉謙信と名前を変えました。
越後国の戦国大名となった上杉謙信は争いをなくすために、越後の豪族から土地を返上させます。すべての豪族が納得できるように土地を再配分し、謙信の家臣として砦を任せました。そうすることで無敵の上杉謙信の軍団ができたといわれています。
なぜ武将は土地をめぐって争いを続けたのか?
越後国内では土地をめぐる争いが絶えませんでした。なぜ、土地をめぐって争うのかという疑問が出てくると思います。鎌倉幕府では、将軍と御家人は主従関係で、将軍のために戦いに出ると恩賞として土地が与えられました。御家人は土地を守るために働いたことで「一所懸命」という言葉ができ、後に真剣に取り組む「一生懸命」となりました。
鎌倉時代から戦国時代にかけて、武士にとって土地の支配と年貢の徴収が領国経営の基盤となります。当時、年貢は米で納めていて、米の生産高が領国経営の鍵になっていました。米の生産高に目をつけて、領国を奪おうとする武将がいました。このような武将がいたため戦いが絶えることがありませんでした。
上杉謙信の生き方の原点はどこにある?
上杉謙信は天下を狙わない戦国大名で、義のために戦う人で有名です。敵の武田信玄が塩に困っているのを知ると、家臣らは信濃を攻めるように進言しましたが、上杉謙信は信濃を攻めずに塩を送りました。この生き方の原点はどこにあるのでしょうか。
1530年に上杉謙信は長尾為景の四男として生まれ、少年期を寺で修行生活を送っていました。寺で修行していたとき、義を重んじるようになったと考えられます。
村上義清ら北信濃の豪族が武田信玄に攻められ、土地を奪われました。北信濃の豪族が助けを求めたとき、上杉謙信は要望を受け入れ、北信濃の豪族を助けるために北信濃で武田信玄と戦います。これが川中島の戦いです。
武田信玄が今川氏真の甲斐国への塩の輸送を止める(「塩止め」)で困っていました。今川氏真から塩止めをするよう催促がありましたが、塩止めをせず、武田信玄に塩を送りました。武田信玄が病死したことを知ったとき、家臣から信濃や甲斐を攻めるように催促されましたが、上杉謙信は家臣らの進言を拒否しました。病人相手に戦いをするという卑怯な手段をとるべきではないという考えがありました。
戦国時代ライターオフィス樋口の独り言
今回は上杉謙信の生き方について取り上げました。上杉謙信といえば、天下を狙わない戦国大名、私利私欲ではなく義のために戦う、敵に塩を送るというのが有名ですが、その原点が少年期の頃の仏門修行であることが分かりました。
上杉謙信の跡を上杉景勝が継ぎました。上杉景勝の代で米沢藩30万石の大名となり、江戸時代が終わるまで米沢藩主となりました。今後、上杉謙信の精神がどのように受け継がれたのか注目したいと思います。
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