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[探訪]上杉謙信と信玄の塩:義の武将の根源に迫る

2023年11月10日


梅干しと酒を楽しむ上杉謙信

 

上杉謙信(うえすぎけんしん)といえば天下統一を狙わなかった戦国武将として有名です。敵の武田信玄(たけだしんげん)が塩に困っているのを知ると塩を送ったことでも有名です。後に「敵に塩を送る」という言葉が、敵が苦しんでいるときに逆にその苦境から救うという意味で使われるようにもなりました。今回は上杉謙信の生涯について生き方の原点となった出来事について取り上げます。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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越後国の戦国大名になるまでの長尾景虎(後の上杉謙信)とはどんな人?

上杉謙信

 

1530年に越後国上杉氏の守護代長尾為景(ながお ためかげ
)
の四男として生まれました。長尾為景の跡を長尾晴景が継ぎましたが、病弱で頼りなく越後国内では争いが絶えませんでした。晴景は春日山城(かすがやまじょう)の山麓にある林泉寺(りんせんじ)で修行していた四男の長尾景虎(ながおかげとら)を呼び戻しました。結果、越後国を統一することができました。

 

後に景虎は長尾家を継ぎ、越後国の戦国大名となりました。関東管領の上杉憲政(うえすぎのりまさ
)
が北条氏康との戦いに敗れ、越後国に逃れました。上杉憲政が長尾景虎に関東管領を譲り、上杉謙信と名前を変えました。

 

越後国の戦国大名となった上杉謙信は争いをなくすために、越後の豪族から土地を返上させます。すべての豪族が納得できるように土地を再配分し、謙信の家臣として砦を任せました。そうすることで無敵の上杉謙信の軍団ができたといわれています。

 

 

 

なぜ武将は土地をめぐって争いを続けたのか?

上杉謙信

 

越後国内では土地をめぐる争いが絶えませんでした。なぜ、土地をめぐって争うのかという疑問が出てくると思います。鎌倉幕府では、将軍と御家人は主従関係で、将軍のために戦いに出ると恩賞として土地が与えられました。御家人は土地を守るために働いたことで「一所懸命」という言葉ができ、後に真剣に取り組む「一生懸命」となりました。

 

鎌倉時代から戦国時代にかけて、武士にとって土地の支配と年貢の徴収が領国経営の基盤となります。当時、年貢(ねんぐ)は米で納めていて、米の生産高が領国経営の鍵になっていました。米の生産高に目をつけて、領国を奪おうとする武将がいました。このような武将がいたため戦いが絶えることがありませんでした。

 

 

上杉謙信の生き方の原点はどこにある?

暗号を使う上杉謙信

 

上杉謙信は天下を狙わない戦国大名で、義のために戦う人で有名です。敵の武田信玄が塩に困っているのを知ると、家臣らは信濃を攻めるように進言しましたが、上杉謙信は信濃を攻めずに塩を送りました。この生き方の原点はどこにあるのでしょうか。

 

1530年に上杉謙信は長尾為景の四男として生まれ、少年期を寺で修行生活を送っていました。寺で修行していたとき、義を重んじるようになったと考えられます。

 

真田丸 武田信玄

 

村上義清(むらかみ よしきよ
)
ら北信濃の豪族が武田信玄に攻められ、土地を奪われました。北信濃の豪族が助けを求めたとき、上杉謙信は要望を受け入れ、北信濃の豪族を助けるために北信濃で武田信玄と戦います。これが川中島の戦いです。

 

武田信玄が今川氏真(いまがわ うじざね
)
甲斐国(かいのくに
)
への塩の輸送を止める(「塩止め」)で困っていました。今川氏真から塩止めをするよう催促がありましたが、塩止めをせず、武田信玄に塩を送りました。武田信玄が病死したことを知ったとき、家臣から信濃や甲斐を攻めるように催促されましたが、上杉謙信は家臣らの進言を拒否しました。病人相手に戦いをするという卑怯な手段をとるべきではないという考えがありました。

 

 

戦国時代ライターオフィス樋口の独り言

三国志ライター オフィス樋口

 

今回は上杉謙信の生き方について取り上げました。上杉謙信といえば、天下を狙わない戦国大名、私利私欲ではなく義のために戦う、敵に塩を送るというのが有名ですが、その原点が少年期の頃の仏門修行であることが分かりました。

 

上杉謙信の跡を上杉景勝が継ぎました。上杉景勝の代で米沢藩30万石の大名となり、江戸時代が終わるまで米沢藩主となりました。今後、上杉謙信の精神がどのように受け継がれたのか注目したいと思います。

 

 

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自己紹介:フリーランスで予備校の講師をしています。 歴史が好きで、予備校では主に日本史を指導しています。 センター試験の点数を40点台から80点台に伸ばした実績があります。 好きな歴史人物:徳川慶喜(理由:多趣味であることが共通しているから)

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