これまでの記事において、本能寺の変の動機について色々な説を取り上げました。
明智光秀が本能寺の変を起こすに当たって、備中高松城攻めをしていた豊臣秀吉や黒田官兵衛が関与した説、人質に差し出していた母親が殺された説、スペインが光秀に起こすよう命じた説を取り上げました。
また、本能寺の変後の明智光秀について、山崎の戦い後に農民に殺害されたという説が伝えられていますが、首などが見つかっていないために天海・千利休・服部半蔵などになりすまして生き延びたという都市伝説もあります。
本能寺の変の動機がいまだ謎であることからフリーメイソンの会員だったともいわれています。今回はフリーメイソンの会員だった説を取り上げます。
明智光秀とは?
明智光秀は1528年に美濃国の牢人として生まれました。史料の解釈によっては1540年という説もあります。斎藤道三に家臣として取り立てられましたが、道三が息子の義龍に殺害されると牢人生活を送りました。
次に13代将軍足利義輝の家臣になると、足軽大将に取り立てられましたが、将軍足利義輝が殺害されると牢人生活となり、越前の朝倉義景の家臣となりました。朝倉義景の家臣になった頃、15代将軍足利義昭は朝倉義景を頼るようになりました。
足利義昭が越前に逃れてから、上洛を促すための活動をします。当時尾張と美濃の大名だった織田信長に上洛を促しました。これが光秀と信長の最初の出会いであるといわれています。信長と出会ってから、明智光秀は足利義昭と信長の家臣となり、将軍家との連絡役になりました。室町時代が滅ぶと、信長専属の家臣となり、丹波国平定や京での馬揃えを任されるなど信頼されるようになりました。
1582年に本能寺の変を起こし、信長を自害に追い込みました。その直後の山崎の戦いで負けてから、坂本城に逃げる途中で農民に殺害されました。
フリーメイソンとは?
フリーメイソンとは16世紀後半から17世紀初頭にかけて結成された組織です。全世界にフリーメイソンの会員はいるといわれていますが、秘密が多いことからスパイなどを連想させることがあります。
明智光秀とフリーメイソンの関係について、直接史料などに書かれた記録はありませんが、本能寺の変の動機がいまだに謎であることから何らかの形で関わっていたという説があります。フリーメイソンと関わることで、イエズス会や信長と敵対していた戦国大名らが光秀に本能寺の変を起こすよう促した可能性があります。
戦国時代ライターオフィス樋口の独り言
今回は明智光秀とフリーメイソンの関係について取り上げました。明智光秀は織田信長の家臣として将軍家や朝廷との交渉を担当していましたが、南蛮人との交渉役を担当していたのかどうか分かりません。フリーメイソンの会員になったのかどうかについても直接書かれた史料がないため、本能寺の変の動機として有力な説とはいえません。今後、西洋の史料で明智光秀に関する記述が発見されるのか注目したいと思います。
NHKの歴史の番組ヒストリアで、明智光秀に関する新しい史料が発見されたことが取り上げられました。新史料によれば、明智光秀は現在の滋賀県高島市にあった田中城の城主として籠城していたということで、時期は織田信長に仕官する数ヶ月前でした。
滋賀県高島市の田中城城主ということで単なる牢人ではなく、将軍家の中で身分が高かったと考えられます。田中城の役割として、北近江の戦国大名浅井長政の進出を阻止することがあげられます。
本能寺の変の要因として足利幕府の再興が有力な説となりつつあります。今後の本能寺の変の解明につながることが期待されます。
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