蜀の五虎将軍の一人で勇猛果敢な将軍として知られる馬超。彼はもともと劉備の配下として付き従っていたわけではなく、劉備が益州を制圧する寸前に仲間に加わった、劉備陣営において比較的新しい人物です。そんな馬超ですが、実は漢民族ではなかったのをみなさんご存知でしたでしょうか。
馬超は漢民族ではなかった
馬超は漢民族ではありませんでした。では一体何族だったのでしょうか。実は馬超は漢民族ではなく、羌族の血が混じっているクォーターだったのです。ではいつごろから馬超の血には羌族の血が混じることになったのでしょうか。
馬超のじいちゃんの時代に羌族と結婚
馬超は後漢王朝で名将として活躍した馬援の子孫です。馬援や馬援の息子、孫の時代は羌族と結婚することなく、純粋な漢民族として暮らしていました。ではいつごろから馬家に羌族の血が混じったのか。それは馬超のおじいちゃんの時代からです。馬超のおじいちゃんの名前は馬子碩と言います。馬子碩は天水群の蘭干県と呼ばれる尉に任命され、この地で役人としての仕事にいそしんでいました。
しかし馬子碩はある時何かのミスもしくは事件に巻き込まれてしまい官職を失ってしまいます。その後馬子碩は涼州から離れて羌族が住む村へ移住し、その地で暮らすことになります。馬子碩は羌族の村で過ごすうちに村の娘と結婚。そしてこの地で生まれた男子が馬超の父親として知られる馬騰でした。
クォーター・馬超はバカにされなかったのか。
クォーターとして誕生した馬超ですが、漢民族の人々からバカにされなかったのでしょうか。力を持っていた馬騰の息子であったことからバカにされることなく成長していったのではないのでしょうか。また馬超はクォーターであったからこそ有利な点がいくつかありました。ではクォーターであった馬超の有利な点とはいったい何なのでしょうか。
クォーターであった馬超の有利な点とは
クォーターであった馬超の有利な点とはいったい何なのでしょうか。それは異民族と仲良くなれた点だと思います。馬超は武勇に優れた武将で異民族討伐を何度も行い勝利を何度も収めてきました。そのため異民族から恐れられて尊敬されていたとも思いますが、異民族が討伐されたからとの理由だけで馬超を尊敬したのでしょうか。
レンは違うと思います。ではどうして馬超は尊敬されることになったのか。
それは彼がクォーターだったからではないのでしょうか。
当時の異民族は強いものに付き従う傾向が強くあったそうですが、それは同族の中での話であり、他民族であった場合尊敬を得ることなどできず、敵対心もしくは恐怖心ばかり募らせてしまい尊敬を得ることは難しいと思われます。
しかし馬超は羌族の血を持っているクォーターであり、異民族と同族といえる人物です。そのため馬超が強くかつ同族の血も混じっている人物であればこそ、異民族から(特に姜族から人望を集めることが)できたのではないのでしょうか。
三国志ライター黒田レンの独り言
今回は馬超が異民族であったことをお話しさせていただきました。蜀は魏と違い馬超をはじめ、他民族出身の武将が出世しやすい国家といえると思います。馬超は五虎将軍として蜀の重鎮になっていますし、他にも孟獲なども南蛮を治めている蜀の将軍で、この人ももちろん漢民族出身の武将ではありません。
また王平も異民族出身の武将として初めは魏に仕えていましたが、後に蜀へ降伏して活躍しています。このように蜀には多くの民族が参加した多民族国家といえる国であり、現代の日本にチョコット似ているのではないのでしょうか。
参考 【正史三国志蜀書】など
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