勝海舟
今回は勝海舟が西郷隆盛を高く評価した理由について取り上げます。勝海舟は幕府の軍艦奉行で、西郷隆盛は薩摩藩藩士という立場が全く異なります。幕府と薩摩藩は互いに敵であることから相手を高く評価することはほとんどないと思われます。敵であるにもかかわらず、互いに高く評価することは幕府に対して何か共通する思いがあったのかもしれません。この記事では、勝海舟が敵の薩摩藩士西郷隆盛を高く評価するまでの過程と無血開城後の西郷と勝について取り上げます。
西郷隆盛と勝海舟の最初の出会い
1864年に禁門の変が起こりました。禁門の変を理由に幕府は朝廷から長州征伐の勅命を受けて長州藩を攻めました。長州藩は長州征伐による幕府の襲撃だけでなく、1863年に下関にて四国連合艦隊を砲撃する攘夷決行に対する報復も受けていました。
長州藩の下関を攻撃した四国連合艦隊が大阪湾へ押しかけるという情報が入りました。幕府は四国連合艦隊対策として軍艦奉行だった勝海舟を神戸に派遣しました。この時、西郷隆盛は大阪に来ていた勝海舟を訪問します。この訪問が西郷隆盛と勝海舟の最初の出会いでした。
初めて西郷が勝海舟に会ったとき、大久保利通に送った手紙の中で「勝海舟は実に驚いた人物で、どれだけ知略があるのか底知れない英雄肌の人物だ。」と高く評価しています。また、西郷は勝海舟から共和政治に関する意見を聞き、感銘を受けました。勝が幕府を見限っていたことから、薩摩藩を公武合体から倒幕への後押しにもつながりました。
勝海舟は西郷隆盛をどのように評価したのか
西郷隆盛と勝海舟の最初の出会いを通して、西郷隆盛が勝海舟のことを大久保利通の手紙の中で高く評価していることを取り上げました。ここでは、勝海舟が西郷隆盛のことをどのように評価していたのか取り上げます。
勝海舟が西郷隆盛を次のように評価しています。「識見、議論では西郷に負けぬが、天下の大事を決する人物はかの西郷である」具体的には、西郷の決断力・行動力・実行力を高く評価しています。
江戸城無血開城後の勝海舟と西郷隆盛
西郷隆盛は江戸城無血開城後、明治新政府の参議として版籍奉還と廃藩置県など重要な改革を断行しました。その後、明治六年の政変で征韓論と国内政治優先の岩倉使節団が対立し、西郷ら征韓論派が明治政府を去りました。
明治政府を去った西郷隆盛らは不平士族による反乱に担ぎ出されます。西郷隆盛は鹿児島において不平士族による最後の反乱・西南戦争で新政府軍と戦いましたが、敗北して自害しました。
一方で、江戸城無血開城後の勝海舟はどのような人生を送ったのでしょうか。江戸城無血開城以来、ドラマではほとんど取り上げられることがないため知らない読者がいるかもしれません。江戸城無血開城後、徳川慶喜の名誉回復に尽力し、1898年に徳川慶喜は明治天皇に拝謁することができました。晩年は執筆活動に時間を割いていたようです。1899年、勝海舟は風呂上がりにブランデーを飲んで脳溢血を起こし、亡くなりました。最期に「コレデオシマイ」と言ったようです。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
この記事では西郷隆盛と勝海舟の最初の出会いから江戸城無血開城後の西郷と勝のそれぞれの人生について取り上げました。ここでは、西郷隆盛と勝海舟の詩について取り上げます。この2人は政治的な実績だけでなく詩も有名です。西郷隆盛については南州と言う名前で詩を数多く残しています。
終わりに、数多くある詩の中から西郷隆盛の「南州墓地」の石碑の詩について紹介します。その石碑には「『ねれぎぬを 干そうともせず 子供らが なすがまにまに 果てし 君かな』 勝海舟」と彫られています。西郷隆盛という人物の大きさが表われているかもしれません。
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