日本にミシンが伝えられたのは幕末であるといわれています。英語にミシンという単語はありません。sewing machine(ソーイングマシーン)がなまって、ミシンになったといわれています。
今回は日本で初めてミシンを使った女性として篤姫を取り上げます。具体的には、日本に伝えられて篤姫が初めて使用した経緯を紹介します。次に、この記事の後半で戦後の日本のミシンの歴史について取り上げます。
日本にミシンが導入された経緯
ミシンはアメリカ人によって1830年代に発明されました。日本にミシンが伝えられたのは1854年のペリーが二度目に来航したときだといわれています。1853年にペリーが来航し、フィルモア大統領の親書を当時老中だった阿部正弘に手渡して帰国しました。
翌年、ペリーが来航し、日米和親条約を調印しました。ペリーが将軍家に数々の献上品を送りました。これらの献上品の中にはウィラー&ウィルソン社のミシンがありました。このとき、ミシンを最初に使ったのは篤姫であるといわれています。
ペリー来航後、勝海舟の幕府使節団が咸臨丸で渡米しました。幕府の使節団に同行していたジョン万次郎が手回し式のミシンとカメラを購入し、日本に持ち帰ったという記録が残されています。ただし、篤姫が日本で初めてミシンを使ったといわれていますが、実際に使っていたという記録は残されていません。今後の研究の動向が気になります。
戦前の日本のミシン
1854年にペリーが将軍家の献上品としてミシンを送りました。ミシンは庶民に普及していませんでしたが、明治時代に入ると庶民に普及し始めます。ミシンが普及し始めた頃は海外からの輸入のみでしたが、国内で修理のみ扱う業者がいました。国内で生産されるようになり、1881年の第2回内国勧業博覧会に国産ミシン1号が展示されました。
1921年に日本でミシンの量産が始まりましたが、外国の製品にはかないませんでした。ただし、外国製品は故障が多いという弱点がありました。日本にはミシンの修理で生計を立てていた安井氏が着目しました。安井氏が立ち上げたミシンの製造・修理会社は複合機などパソコンの周辺で有名なブラザー工業となりました。
第二次世界大戦が始まり、戦争が激化すると家庭用ミシンの製造は禁止されました。戦時中、ミシンは軍用のみ製造されました。
戦後の日本のミシン
1945年に第二次世界大戦が終わるとミシンの需要が増大しました。当時、戦後すぐに繊維製品が日本の輸出品になっていたことや1ドル=360円という為替レートで、輸出が有利だったことが需要増大の要因として考えられます。
戦前は家庭用ミシンの規格統一はされていませんでしたが、戦後になると規格が統一されました。また、家庭用のミシンと同様に工業用のミシンも大量に生産されました。当時、戦後の日本の女性は嫁入り道具としてミシンを使っていました。
1970年代から国内のミシンメーカーが製造コストを削減するために海外に生産拠点を移すようになりました。また、アパレル産業も製造工場を海外に移す動きもあり、国内では製造会社はあるものの家庭用と工業用のミシンの製造をほとんどしなくなったといわれています。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は日本で初めてミシンを使った篤姫について取り上げました。ペリー来航がきっかけで開国することになりましたが、ペリーの献上品の中にミシンがあったから現代まで使われていることが分かりました。篤姫がミシンを使い始めたことで日本の女性の家事労働が変わったのかもしれません。
今後、ペリーの献上品や幕末海外から導入されたもので、明治時代以降に人々の生活を大きく変える物があるのかどうか注目したいと思います。
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