日本史の語呂あわせ、1(一)59(国)0(丸々秀吉貰った)でもお馴染みのように豊臣秀吉は1590年に天下を統一し1世紀以上続いた戦国時代を終わらせます。その締めくくりの戦いこそが、小田原征伐で通説では、22万を越える大軍と圧倒的な物量を持つ豊臣軍が籠城するしかない北条氏を横綱相撲で破ったと言われています。ですが事実は小説より奇なり、この小田原攻め、実際は言われる程の大勝利ではなく豊臣サイドの辛勝だったとも言われているのです。
※こちらの記事は、河井敦 歴史の勝者には裏がある日本人が誤解している戦国史を参考にして書かれています。
この記事の目次
最初は長期包囲で北条が降るのを期待した秀吉
小田原征伐の当初、豊臣秀吉は天下人として花いくさを展開しようとしました。二十二万の軍勢と二十万石を越える兵糧を清水港に運び込み、大軍で小田原城を包囲し自らは付け髭に金ぴか主義の豪華な鎧兜で仮装して歩き、大坂から茶々のような愛妾を呼び寄せ、連日、茶の湯や能を開催して「北条氏?何それ美味いの?」と横綱相撲をアピールしたのです。また、秀吉は寛大な天下人PRの為に陣内に遊郭や市を立てる事を許し、そこは、陣中というより歓楽街のような様相を呈しました。ところが!一年でも二年でも後北条氏が降るのを待とうと期待していた秀吉は、急に方針転換、短期決戦に切り替えてしまったのです。一体、どうしてなのでしょうか?
天才は諦めた!小田原征伐最強の敵 北条氏照
秀吉の豹変の理由、それは、後北条氏の重鎮だった北条氏照でした。氏照は先代の当主、北条氏政の兄弟で、北条氏康の子、八王子城を拠点に二百万石と言われる北条氏の所領の三分の一を任されている実力者です。兄や父と共に数多の合戦に参加し戦争経験も豊富だった氏照ですが、それ以上に得意だったのは外交の根回しでした。氏照の周旋により、後北条氏は上杉謙信、織田信長、伊達政宗のような有力大名と同盟を結ぶ事が出来たのです。
また、その頃、徳川家康は督姫を北条家の当主の氏直に輿入れしており、北条氏と徳川氏は縁戚の関係にありました。このような根回しを駆使し、伊達政宗と徳川家康と密かに秘密同盟を結び豊臣秀吉を迎え撃っていたのです。事実、伊達政宗が秀吉の招集になかなか応じず、二か月も遅れたのは、大河ドラマなどでも見せ場になる有名な話でした。ある時点まで、伊達政宗は秀吉に牙を剥くつもりだったようです。
徳川家康と織田信雄内通の情報に秀吉焦る
後北条氏は縁戚の誼を利用して、徳川家康と織田信雄にしきりに内応を誘います。もちろん、成功するに越したことはありませんが、成功しなくても、噂が広まるだけでも十分でした。太閤記には、このような記述があります。
「長陣のくせに虚説を言い出す事共は家康卿信雄卿一味し給ふて
小田原城中と内通有りやうに、誰しかと云うとはなしに、げに左も有つべう、
陣々云しろひ、次第々に其説つの侍る」
織田信雄は、名前の通り信長の三男で当時秀吉に臣従していましたが、尾張、伊賀、南伊勢などに所領を有し百万石の大大名でした。この噂に秀吉は堪らず、小姓数人を引き連れた軽装で家康、信雄の陣を訪れその親密ぶりをPRしたそうです。
「家康殿と信雄殿が敵に内通、そんなのあり得ませーん。だって、わしらはこんなにフレンドリーだもーん」
秀吉は造り笑顔を浮かべ自軍の疑心暗鬼を払しょくするのに必死でした。
小田原城は一つの街として機能していた
小田原城は1587年以後、来るべき豊臣軍の襲来に備えて、近隣の田畑まで郭内に取り込んでいました。その全長は12キロに及び戦争を継続しながら農作業も出来るという本物の城塞都市に変貌していたのです。おまけに大量の食糧が城には運び込まれており、放出と納入を繰り返す事で城内の物価は安定し、毎日市が立っていました。秀吉の陣営程に派手ではありませんが、小田原城内でも連歌や双六、酒宴が催され戦争が始まってから2か月経過しても小田原城が落ちる様子はありません。こういう事が包囲軍に伝わるとみるみる士気は低下しはじめます。22万豊臣軍とはいえ、その大半は状況次第でいつ噛みつくかわからない戦国大名の烏合の衆。一代の成り上がり大名の秀吉は内側に敵を抱えている部分もあったのです。
松平家忠日記に見る豊臣本陣の士気低下
それを裏付けるように、松平家忠日記には、6月に入ると豊臣軍の主力の陣中で乱暴狼藉を働くものや逃散する兵士が相次いだとあります。それも無理がない事で、当時、豊臣勢と小田原勢では、特に大きな衝突もなく散発的な鉄砲の打ち合いしか起きていなかったので、参陣した足軽連中は、略奪の褒美も手柄を立てる機会もなく、段々投げやりになっていました。ここで注意すべきは、乱暴狼藉や逃散したのは豊臣軍の主力という事です。秀吉へのお付き合いで従軍している他の大名の士気はもっと低かったでしょう。このような状況は秀吉を苛つかせたようです。
言う通りにやったのに、、理不尽に叱られた前田利家
そんな秀吉の理不尽な苛立ちを一身に受けた可哀想な武将が前田利家でした。北陸勢の主将として、前田利家はなるべく力攻めをせずに敵を降伏させよという秀吉の命令に従い、厩橋城、松井田城、沼田城、鉢形城、松山城を包囲して巧みに圧力を掛けて、開城させました。得意の利家は、戦況報告を兼ねて秀吉に報告する為に陣を離れます。きっと褒めてもらえるだろうと思っていた利家ですが、待っていたのは、ねぎらいの言葉どころか秀吉の舌打ちでした。
「7つも8つも城を落としたなら、せめて1城は撫で斬り(皆殺し)にすれば良かったものを!」
太閤記
秀吉は側近に、利家使えねェと愚痴を垂れ、それが利家の耳に入ります。
利家「えーーーーっ!力攻めはダメって言ったのそっちじゃーん」
利家大ショック、秀吉の信頼を取り戻す為に6月の末、北条氏照の本拠地八王子城の力攻めを決意します。北条氏照は小田原城に入っていたので、八王子城は城代の横地監物が指揮します。2000名の城兵は頑強に抵抗し1000名の死者を出して1日で開城しますが、前田利家も一日で1000人の兵を失いました。秀吉は斬り殺した八王子城の1000人の首と捕まえた捕虜を船に乗せ水濠に浮かべ小田原城サイドに見せつけました。
「ワシを怒らせるとこうなるんじゃ、分かったか関東の田舎者ども」
鼻息荒く後北条氏を恫喝する秀吉の表情が見えるようです。当初の花いくさ、横綱相撲はどこへやら、秀吉は焦りからどんどん短期決戦で過激な手法に変化していったのです。
最期は和睦条件で嘘をつき騙し討ち
一方の小田原城の後北条氏にも動揺が広がっていました。頼みにしていた奥州の雄、伊達政宗が5月には秀吉について参陣してしまい家康も信雄も謀反の様子がなく、完全に目論見が狂ったのです。それに加えて、城内からの内応者も続出しました。もとより、後北条氏の勝機は外からの援軍しかありませんが、その見込みが潰えたのです。籠城しようと思えば、一年でもできますが、ただ敗北が先に延びるだけ、それよりもこちらに有利な条件で和睦を受け入れて、領地を削られても生き残るのが最優先という考えが主流になっていきます。
皮肉にも、その和睦の窓口になったのも徳川家康や織田信雄でした。小田原は落ちない、そう結論した秀吉は武蔵、相模、伊豆の三ヵ国安堵を餌に先の展望が開けない後北条氏に揺さぶりを掛けました。この和睦交渉には秀吉の軍師、黒田官兵衛も参加しています。
この結果、発生したのが出口のない小田原評定でした。
「秀吉は信用できるのか?城を開いた瞬間に全て反故ではたまらんぞ」
「だからと言って、このまま持久戦をして勝機があるのか?」
「すでに当方は孤立無援だ、ここは徳川殿を信じて和睦するしかない」
果てしない議論の結果、1590年の7月5日、北条氏直は「自分の命と引き換えに城兵を救って欲しい」と申し入れ小田原城は開城しました。降伏の条件として、秀吉は北条氏政、北条氏照、大道寺政繁、松田憲秀の切腹を命じ4人は切腹、当主であった氏直は切腹を免れ高野山に入れられます。ところが、戦後処理を終えると秀吉は、伊豆、相模、武蔵の所領安堵反故にし、北条氏の旧領は、丸々徳川家康に与えられたのでした。つまりは、秀吉は最後には後北条氏を騙すという花いくさに似つかわしくない汚い手段で天下統一を成し遂げたのです。
戦国時代ライターkawauso編集長の独り言
秀吉が当主である北条氏直を助命して高野山に押し込んだのは、自分の命と引き換えに家臣の命の保全を願い出た事に秀吉が感銘を受けたから等と言われていますが、どうも疑わしいです。こんな騙し討ちをしておいて、おまけに氏直まで切腹させたら、さすがに北条の旧臣と領民にド顰蹙を買う事を恐れて、恩着せがましく助命をしたのではないでしょうか?
その後、氏直は正式に赦免され、1万石の大名として復活しますが、1591年、30歳の若さで疱瘡で死んだそうです。確かに、結果を見れば北条氏の勝利の可能性は限りなく低かったのですが、じゃあ、秀吉の楽勝だったかというとそうでもなく、呑気な長期決戦も難しくなり、なりふり構わない打開策をやって、やっと面目を保ったのが事実ではないでしょうか
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