「あの頃は良かった…」と口にする人は古今東西たくさんいますよね。中には自分が生まれていなかった時代に思いを馳せて「あの時代に生まれたかった…」なんて遠い目をする人もいるでしょう。実は、中国にもそんな人たちはたくさんいました。彼らは誰もかれもそろいもそろって「漢王朝の御代は良かった…」と遥か遠い時代の漢王朝に思いを馳せ、彼らが生まれた時代について不満を垂れ流していた様子。
しかし、彼らが言うほど漢王朝は素晴らしい時代を築いていたのでしょうか?今回は漢王朝とはどのような王朝だったのかについてご紹介したいと思います。
この記事の目次
項羽を破った劉邦によって建てられた漢王朝
秦の始皇帝の死後、秦の圧政に苦しんだ民草の不満が爆発。陳勝・呉広の乱が勃発し、中国大陸は戦国時代の人々も真っ青になるくらいの騒乱状態に陥りました。そんな中、みるみるうちに台頭してきたのは項羽と劉邦の2人。最初2人は同盟関係にあったのですが、劉邦が抜け駆けして秦の首都・咸陽を攻め落としてしまったからさぁ大変。ブチギレた項羽によって漢中に追いやられてしまいます。
その後、自分で担ぎ上げた義帝を自ら殺した項羽に不満を抱いた者たちによる反乱が起こり、それに劉邦が乗っかったことによって楚漢戦争が勃発。垓下の戦いで項羽を破った劉邦は長安を都として漢王朝を立てたのでした。
劉邦による大粛清と呂后による専横
天下統一直後、劉邦は自分が皇帝となれたのは臣下たちのおかげだと心の底から臣下たちを労い、たくさんの恩賞を与えました。劉邦のこのような謙虚で誠実な姿勢は人々に理想の皇帝像として刻まれることになります。
ところが、そんな劉邦の心を次第に黒い感情が支配し始めました。項羽を倒す際に活躍してくれた力を持つ臣下たちに対して「俺が死んだ後、こいつらが皇帝になる気なのでは…?」と猜疑心を抱くようになってしまったのです。その結果、韓信をはじめとする功臣たちを次々に粛清。
でも、韓信を殺したことを後悔する一面を見せるなどなかなかの不安定っぷりを発揮します。そんな劉邦は自分の血を引く者が栄えるようにと郡国制を制定した後崩御。劉邦の死後は劉盈が恵帝として即位したものの、気が強い呂后が政治の実権を握り、外戚政治が盛んに行われるようになってしまいます。こうして、劉邦の劉氏繁栄の願いは儚く消え去ろうとしていました…。
文景の治で持ち直す
先が危ぶまれた漢王朝でしたが、呂后の死後に呂氏一族が粛清され、5代皇帝として劉恒(文帝)が即位してから事体が好転します。文帝は税を30分の1に減らしたり貧窮した者たちに援助をしたり、自ら倹約に励んだりといった善政を敷き、人々のために尽くしました。続いて即位した劉啓(景帝)も文帝と同様に人々を慈しむ政治を行い、人々の生活を豊かにすることに成功しました。彼らの統治は文景の治として称えられています。
武帝の時代に絶頂期を迎える
国が豊かになり、諸侯王の力も強まったことによって呉楚七国の乱が起こるというアクシデントがあったものの、漢王朝の権威はぐんぐん高まり、7代皇帝・劉徹(武帝)の時代に絶頂期を迎えました。武帝は始皇帝以来の封禅の儀を泰山で行い、漢王朝の威光を天下に轟かせました。また、優秀な儒者を招こうと郷挙里選を制定したり、積極的に異民族討伐に出かけて領土を拡大したりシルクロードの交易路を開いたりと中国の礎とも言えるものを次々と築いていったのでした。
中興の祖・宣帝
武帝時代の後半からは法に厳しすぎる酷吏の任用によってしばらくの間暗雲とした時代が続きますが、その状況を打破してみせたのが、9代皇帝・劉詢(宣帝)でした。彼は人々を正しい方向に導く循吏を登用するなどの善政を敷き、また、長年苦しめられてきた匈奴の一部を臣従させることに成功したことから中興の祖と讃えられるようになりました。
王莽の簒奪があったものの400年続いた漢
このように、多くの優秀な皇帝が現れた漢王朝でしたが、王莽の簒奪によって200年ほど続いた命脈が絶たれてしまいます。しかし、すぐに息を吹き返し、三国時代が到来するまで更に200年もの間漢王朝は続きました。合計で400年もの間続いた漢王朝はその後多くの王朝のお手本となる存在に。また、儒学が盛んに行われるようになった時代ということもあり、後世多くの儒者たちが憧れる王朝にもなったのでした。
三国志ライターchopsticksの独り言
謙虚で誠実な高祖、優秀な皇帝の数々、400年という長い歴史、儒教の発展…。漢王朝が後世の人々に憧れられる理由は他にも数えきれないくらいたくさんあります。暗黒時代といえるものも定期的に訪れていたようですし、後漢時代は外戚と宦官の争いでほとんど滅茶苦茶ですが、そういったことを加味しても漢王朝は人々の憧れとなりうる素晴らしい王朝だったのではないでしょうか。
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