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[明智光秀の秘密]熊本藩との結びつき、細川ガラシャが鍵?

2024年1月17日


明智光秀 麒麟がくる

 

今回は明智光秀(あけちみつひで)熊本藩(くまもとはん)との関係について取り上げます。この記事では明智光秀の三女・玉(後の細川ガラシャ)について取り上げます。後半では細川ガラシャの子孫について取り上げます。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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細川ガラシャとは?

細川ガラシャ

 

明智光秀には2男4女がいました。玉は3女です。1563年、越前に生まれました。当時、光秀は越前国の戦国大名・朝倉義景(あさくら よしかげ)家臣(かしん)として仕えていました。朝倉義景の家臣として構えた屋敷は現在の福井市にあり、明智神社として後世に伝えられています。

 

1578年、細川藤孝(ほそかわ ふじたか)の嫡男の忠興に嫁ぎました。1582年、明智光秀が本能寺の変を起こし、織田信長(おだのぶなが)を討ったため、玉は逆臣の娘となりました。細川忠興は妻の玉を丹後国の味土野に幽閉しました。

 

豊臣秀吉(とよとみひでよし)からの取り成しにより細川忠興(ほそかわ ただおき)は玉を細川家の大坂屋敷に戻すことになりました。玉が大坂屋敷に入ると、キリシタン大名で有名な高山右近に出会います。高山右近のカトリックの話を聞くと、その教えに惹かれてキリスト教徒になりました。玉は洗礼を受けて細川ガラシャと名乗ります。

 

1600年、細川忠興は徳川家康(とくがわいえやす)に従い、会津の上杉景勝(うえすぎ かげかつ)の征伐に出陣しました。西軍の石田三成(いしだ みつなり)は大坂の屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとしましたが、拒否しました。キリスト教では、自害することが禁止されているため家老に胸をつかせて、ガラシャは死亡しました。屋敷に爆薬を仕掛けて大坂屋敷は炎上しました。西軍の石田三成はガラシャの自害に驚き、人質を取ることをやめたといわれています。

 

 

 

細川ガラシャの子孫

 

明智光秀の子孫は本能寺の変後に自害したため、いないと考えられがちですが、細川忠興と光秀の娘の細川ガラシャの間に生まれた子孫が現在まで残っています。

 

初代熊本藩主は細川忠興の三男忠利です。忠利から18代目の当主に細川護熙氏がいます。細川護熙(ほそかわ もりひろ)氏は総理大臣に就任することが決まった際、細川忠興の末裔として話題になりました。

 

細川護熙氏は国会議員になる前に熊本県知事を経験しました。熊本県知事を経て参議院議員・衆議院議員を歴任し、第79代内閣総理大臣に就任しました。当時、細川護熙内閣は自民党による55年体制にピリオドを打った非自民による連立政権で話題になりましたが、汚職事件によってわずか8ヶ月で辞職することになりました。1998年に60歳を区切りに政界を引退し、執筆活動やラジオパーソナリティを務めていたことがあります。細川護熙氏は執筆活動を中心に活動しています。

 

 

戦国時代ライターオフィス樋口の独り言

三国志ライター オフィス樋口

 

今回は明智光秀と熊本藩との関係について、前半で明智光秀の娘の細川ガラシャについて取り上げました。2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』で、明智光秀を主人公にしたドラマが放送されることが決まると、関心の高さから明智光秀や細川ガラシャに関する新史料が公開され、話題になっています。

 

2018年8月から9月にかけて、熊本県立美術館で「細川ガラシャ展」が開催されました。この展覧会では、ガラシャの父・明智光秀に関する新史料や本能寺の変に関する文書も公開されました。この展覧会では、我々の細川ガラシャが持っているガラシャのイメージが明治時代に逆輸入されたことが紹介されています。逆輸入された内容は元侍女の証言やイエズス会の年報が基になっていると伝えられています。

 

1566年以前に明智光秀に関する史料はないとされていましたが、この展覧会では1566年以前の光秀に関する史料も公開されていました。他にも本能寺の変で、足利義昭(あしかが よしあき)が黒幕となったとされる史料や四国説の根拠となった「長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)書状」も公開されていました。大河ドラマの放送に合わせて、今後の明智光秀に関する研究が進展し、新しい発見があることを期待したいと思います。

 

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自己紹介:フリーランスで予備校の講師をしています。 歴史が好きで、予備校では主に日本史を指導しています。 センター試験の点数を40点台から80点台に伸ばした実績があります。 好きな歴史人物:徳川慶喜(理由:多趣味であることが共通しているから)

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