藤原兼家は、NHK大河ドラマ「光る君へ」で描かれるように、天皇に毒を盛ったり、次男の殺人をもみ消すなど、ダーティーな手段を使うことで知られる人物です。しかし、彼の汚れ仕事を惜しまない姿勢は、ライバルを押しのけ、一条天皇の外戚として息子の道長に権力を継承する道を築くのに役立ちました。
長兄に好かれ、次兄に嫌われる
兼家は929年に右大臣藤原師輔の三男として生まれ、兄である伊尹の格別の支援を受けながら出世しました。しかし、兄である兼通の出世を追い越した事で兼通との確執が激しくなり、兼通が関白になると一時は不遇の時期を経験します。しかし兼通が亡くなると兼家は再び勢いを取り戻し、権力を掌握していきました。
花山天皇を計略で譲位させる
朝廷に返り咲いた兼家ですが、即位した花山天皇は皇族出身の源雅信や伯父の藤原義懐を重用し、兼家を信じませんでした。既に五十歳を過ぎ、焦っていた兼家は花山天皇を退位させて自分の孫である一条天皇を即位させるために、最愛の妃を亡くして悲嘆に暮れる花山天皇を息子の道兼に命じて唆して出家させ、幼い孫の一条天皇を即位させる事に成功します。
右大臣を辞めて摂政として権力を振るう
天皇の外祖父として摂政に就任した兼家ですが、現在も勢力を持つ円融法皇や法皇が信任する源雅信が左大臣として兼家の上役にいて、兼家の権力の増大に歯止めをかけていました。そこで兼家は右大臣を辞任すると、従一位、准三宮となり太政官を通さずに外戚として幼い天皇に代わって政治を動かすようになりました。兼家は円融法皇の反対を押し切って、道隆や道兼、道長を短期間で公卿に昇進させ、道隆を内大臣に指名し、太政官の事務職である弁官を全て、自分の息のかかった人間に配置換えするなど強引な手法で、藤原摂関家の権力基盤を確保しました。
汚れ仕事も家族のため
兼家は政治基盤を強化し、関白に就任しましたが、体調を崩して関白の地位を道隆に譲り、出家し、間もなく62歳で病死します。その後も、彼の権力基盤は息子たちによって継承され、五男の道長の時代には全盛期を迎えることになりました。藤原兼家の人生は、汚職や策略を用いて権力を掌握し、その後の葛藤と野望が交錯する非常に野心的で傲慢なものです。その手段や傲慢さによって、一族内の確執や政治的な諍いを引き起こすことになりましたが、その奥底には自分が汚れ仕事を引き受け、子孫たちには楽な道を歩ませたいと願う、父親としての心も含まれていたと言えるでしょう。
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