広告

[山岡鉄舟の奇跡]勝海舟の背後で輝く英雄の人生

2024年2月20日


 

山岡鉄舟

 

今週の西郷どんはいよいよ、江戸無血開城が描かれます。江戸無血開城と言えば、勝海舟(かつかいしゅう)西郷隆盛(さいごうたかもり)の会談が有名ですが、実は、それ以前に敵中堂々と西郷に面会を申し込み、徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の助命を勝ち取った人物がいます。それが、剣と禅の達人として知られた山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)です。

 

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



1836年江戸本所に生まれる

 

山岡鉄舟は、1836年、江戸本所に蔵奉行、木呂子(きろこ)村の知行主、小野朝右衛門高福(おのあさえもんたかとみ)の四男として誕生します、鉄舟は居士号で通称は鉄太郎と呼ばれます。家が武芸に熱心だったので、鉄舟も9歳から直心影流(じきしんかげりゅう)を学び、その後1845年に飛騨郡代(ひだぐんだい)に任命された父に従い飛騨高山に引っ越し、そこで弘法大師入木道51世の岩佐一亭(いわさいってい)に書を学び、15歳で52世を受け継いで一楽斎と号しました。

 

さらに鉄舟は父の招きで井上清虎にも師事し北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)を学びます。鉄舟は17歳から禅の修行もしており、剣、書、禅の3つを兼ね備えるようになります。特に禅は、後に西郷隆盛(さいごうたかもり)と交渉しても気後れしない程の胆力を鉄舟に与えました。

 

 

 

 

幕臣になるも浪士組に参加して謹慎処分

江戸城

 

1852年、父が死去、鉄舟は江戸に帰り、井上清虎の援助で1855年に講武所に入り、千葉周作(ちばしゅうさく)に剣術、山岡静山(やまおかせいざん)に忍心槍術を学びます。この時、師事していた静山が26歳の若さで病没、山岡家は全ての男子が養子に出ていたので静山の弟の謙三郎(けんざぶろう)が鉄太郎を静山の妹の英子(ふさこ)と結婚させます。これにより、鉄舟は山岡姓を名乗る事になるのです。

 

鉄舟の剣技は抜群で、講武所の世話役になりますが、1857年、清河八郎(きよかわはちろう)ら15名と尊皇攘夷(そんのうじょうい)を標榜する虎尾の会を結成します。1862年、江戸幕府は京都の治安悪化に伴い、清河の意見を容れて浪士組を結成、もちろん、鉄舟も親友の中條金之助(なかじょうきんのすけ)とともに取締役になります。1863年には、将軍徳川家茂(とくがわいえもち)の先供として上洛しますが、清河八郎は京都につくや「これは幕府を守るのではなく、尊王攘夷の先鋒になる軍である」と演説し、浪士組は分裂、この時に京都に残ったのが、芹沢鴨(せりざわかも)近藤勇(こんどういさみ)で、後に新選組(しんせんぐみ)になります。

 

清河の言動に不安を感じた幕府は浪士組を呼び戻し、鉄舟も責任を取らされ謹慎処分を喰らいます。

 

 

慶喜の助命を賭けて西郷と会談する

 

5年もの謹慎を終えて、1868年、鉄舟は新たに設立された精鋭隊の歩兵頭格になります。この精鋭隊、鳥羽伏見(とばふしみ)の戦いで敗れた徳川慶喜を守る為に勝海舟が組織した70名余りの組織です。なんだか冴えない組織の頭を任された鉄舟に、さらなる命令が下ります。それが慶喜が謝罪恭順(しゃざいきょうじゅん)の意を示しているので助命をお願いする使者として官軍の征討大総督参謀(せいとうだいそうとくさんぼう)の西郷隆盛に書状を渡す役割です。

 

元々、海舟は幕末三舟で誠実の人として知られた高橋泥舟(たかはしでいしゅう)を使者にする予定でしたが、高橋は慶喜の警護役として身辺を離れられないので、急遽、泥舟の義弟である山岡鉄舟に白羽の矢が立ったのです。すでに鳥羽伏見で一戦を交え、官軍は殺気だっています。そうでなくても慶喜を殺せ、首を討てという声は官軍に漲っていますし、西郷でさえ、慶喜の処分なしに戦争は終わらないと考えています。

 

こんな交渉役を引き受けるのは高い確率で死に行くようなものですが、鉄舟は引き受けます。腰の大小を売り払う程に貧しい鉄舟は親友の関口良輔(せきぐちりょうすけ)に刀を借り1868年3月9日、駿府にたどり着き、伝馬町の松崎屋源兵衛宅で西郷と会見するのです。この時、鉄舟は気合に満ち、誰何する薩摩兵に「朝敵徳川慶喜が家来、山岡鉄太郎、まかり通る」と大声で呼ばわり堂々と通過したそうです。

 

 

 

西郷さん!あんたならこんな条件を島津公に飲ませるかィ?

徳川慶喜

 

西郷と会見した鉄舟は平身低頭、慶喜はもう天子の軍に逆らうつもりはなく上野寛永寺に謹慎しておりますので、何卒(なにとぞ)助命をと頼みこみます。

 

西郷は、「この条件を呑むなら考えもそ」と五か条の条件を提示します。それは、

 

1江戸城を明け渡す。

2城中の兵を向島に移す。

3兵器をすべて差し出す。

4軍艦をすべて引き渡す。

5将軍慶喜は備前藩(びぜんはん)にあずける。

 

西郷隆盛像

 

という五か条でしたが、鉄舟は、最後の慶喜の身柄を備前藩に預けるだけは何としても飲む事は出来ないと拒否します。それというのも備前藩は薩長に与している藩であり、そこに慶喜を移せば病死に見せかけての毒殺の可能性だって捨てきれないからです。西郷は「これは勅命でごわんど」と大きな目を剝いて凄みます。しかし、鉄舟は引き下がりません。

 

「西郷さん、あんた、もしおいらと立場が逆だったらどうするんだィ島津公を江戸に預けろと言ったら、あんた承知するのかい!」

 

鉄舟は要求が通らないなら、その場で腹を斬りそうな剣幕です。情の人である西郷は、全てを投げだして主君の助命を願う鉄舟を退ける事が出来ずついに独断で慶喜の身柄を備前藩に預けるという条件をひっこめました。

 

金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、

そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない

山岡鉄舟を評した西郷の言葉

 

 

鉄舟から慶喜の助命が認められたと聞いた海舟は、愁眉(しゅうび)を開きました。(上様の助命が認められた、これで何とか幕府の抗戦派を抑えきれるかも知れん)以後、海舟は四の五の言えば、慶喜の命を危険にさらすを殺し文句にして幕府内の抗戦派を必死に抑えつつ、西郷と会見、ついに江戸城無血開城を成功させます。

 

しかし、それも鉄舟が慶喜の助命を命がけで西郷に飲ませたから出来た事で鉄舟の功績は決して小さいものではないのです。

 

 

 

明治天皇の侍従を10年勤め影響を与えた鉄舟

明治天皇の侍従を10年勤め影響を与えた鉄舟

 

明治維新後、十六代当主、徳川家達(とくがわいえさと)について、徳川の旧領として安堵された静岡に下り、茶の栽培など殖産興業に従事した鉄舟は、廃藩置県後には、新政府に出仕し、静岡県の権大参事(ごんのだいさんじ)、茨城県参事、伊万里県権令(いまりけんごんれい)を歴任します。

 

そんな鉄舟に新政府に戻った西郷が目をつけて1872年、宮中に出仕するように依頼しました。当時の宮中は、幕府の公家諸法度(くげしょはっと)を通じて、完全に軟弱化していて、天皇は沢山の女官に取り巻かれ、容姿から言動から、全てが女性化していたのです。西郷は、万葉の昔の乗馬し重臣と野山を駆け回るような男性的な天皇を望んだので、豪快な性格であり、裏表のない高潔な人格を持つ鉄舟に白羽の矢を立てました。

 

鉄舟は辞退しましたが、断り切れず、10年の約束で引き受けます。鉄舟は相手が天皇でも一切容赦をせず、共に大酒を飲んで自らの武勇伝を語り天皇が頻繁(ひんぱん)に後宮に通った時には、途中で待ち伏せて柔術で投げ飛ばして(いまし)め、また、御所で火事があった時には、自宅から一番に駆け付けるなど、全身全霊を尽くして天皇の教育に務めます。

 

1882年、明治15年、西郷との約束通りに鉄舟は10年で宮中を辞し1887年に功績で子爵に叙されます。翌年の1888年、鉄舟は胃癌(いがん)で52歳で死去しますが、長年の修行で死期を悟っていたのか結跏趺坐(けっかふざ)の姿勢で亡くなっていたそうです。鉄舟の死を聞いた明治天皇は、皇居前で葬列を10分間停止するように依頼高殿から目送で葬列を見送りました。

 

 

無欲恬淡、公に生きたサムライの人生

無欲恬淡、公に生きたサムライの人生

 

書の達人だった鉄舟は生涯に100万枚の揮毫(きごう)をしたと言われています。ところが、そうして得たお金を鉄舟は中身もみないで文箱(ふばこ)に放り込み、貧乏人がお金を無心しに来ると、文箱からお金を取り出して惜しげもなく与えていました。理由を聞くと、私は書を書いて金を取る気はないが、くれるから有難くもらう、それで貧乏人がくると何とか救ってやりたいから、その金をやるんだと答えました。

 

鉄舟は宮中に務めていた関係で、公家などとも付き合いがあり随分と集られたりして膨大な出費になり、高い地位にあるわりに台所は火の車でずっと貧乏でした。そのせいで死後には、多額の借金が残ったそうです。

 

 

幕末ライターkawausoの独り言

幕末ライターkawausoの独り言

 

剣、禅、書という、まるでお金にならない事に造詣が深かった山岡鉄舟いかにもサムライらしい人生を生きて、貧しさの中で死にました。しかし、彼の高潔な人格は西郷のみならず、多くの人を魅了し、葬儀の参列者は五千人、死後には、門弟で殉死(じゅんし)した人まで出ています。お金は残さなかったけど、鉄舟はそれよりずっと大事なモノを残していたのですね。

 

 

▼こちらもどうぞ

江戸城オフィスを大公開!大名の争いは部屋取りゲーム?

 

 

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
kawauso

kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

-外部配信