諸葛孔明から直々に後継者に指名され、諸葛孔明の跡を引き継いで蜀の国のトップに君臨した蒋琬。蒋琬はかなり優秀な人物で諸葛孔明が連年北伐したことによって低下していた蜀の国の国力を回復傾向へ持ち直すことに成功します。こうして蜀の国は蒋琬の力によって国力を回復傾向へ持ち直すことになりますが、彼の子供たちもまた蒋琬に匹敵するほどの人材だったのでしょうか。今回は蒋琬の子供達について紹介していきたいと思います。
蒋琬の子供は実在していたのか。
後漢王朝の皇帝は初代と二代目はそれなりに長生きしますが、それ以降の皇帝たちは40歳を過ぎる前に亡くなってしまいます。このように三国志や三国志の前時代は、保健衛生が整っていないことから、皇族や王族、貴族などの上級階層の人々や庶民の人々が長い時間を生きることができませんでした。
特に高齢や子供など体が弱っている者ほど早くに亡くなってしまいます。このような時代で蒋琬の息子は誕生することができたのでしょうか。ちゃんと蒋琬の息子は誕生して史実に名を残しています。彼の息子の名前は蒋斌といいます。蒋斌はいったいどのような人物だったのでしょうか。
父・蒋琬の跡を継いだ蒋斌
蒋斌は蒋琬が亡くなると父の跡を継いで蜀の将軍に就任し、軍人の道を歩んでいくことになります。蒋斌は将軍の位に就任すると蜀防衛拠点の一つである漢城防衛を命じられることになります。蒋斌は漢城の守備を命じられるとこの地を守ることに注力していくことになります。蒋斌が漢城守備についてから数年後、魏の大軍が蜀へ押し寄せてくることになります。
蒋斌の文才がきらりと光る
蒋斌は意外にも文才の才能がありました。その証左として次のようなエピソードがあります。蒋斌は魏軍が大軍を率いて蜀へくるとすぐに漢城の防備を固めて敵軍を迎え撃つつもりでいました。
そんな中、魏の大将軍・鐘会は蒋斌へ「蜀の人々は私と同じ漢民族で、私はあなたの父親を尊敬していました。そこで蜀の地へ到着した時にはあなたの父親のお墓参りを行いたいと思っているのですが、父君のお墓がどこにあるか教えてもらえないでしょうか」と手紙をもらいます。すると蒋斌は鐘会へ「お手紙ありがとうございます。父は涪にお墓を立ててそこで眠っています。あなたの申し出を聞いて私は非常に感動しました。お墓参りの件どうかよろしくお願いします」と丁寧な返信をしたためます。
蒋斌が鐘会へこのような手紙のやり取りができるのは彼がそれなりに文才を持った人物であったことの証左といえるのではないのでしょうか。その後鐘会は蒋斌の手紙をもらうと感動し、涪へ到着するとすぐに蒋琬のお墓参りを行います。蒋斌は鐘会が父のお墓参りを実行に移したことを知り、大いに感動し蜀が滅亡した後、鐘会の元へ出頭することになります。
友人のように扱われる
鐘会は蒋斌が降伏してくるとすぐに彼を受け入れます。蒋斌は鐘会から友人のように扱われたそうです。しかし鐘会が魏に対して反乱を起こした際、鐘会の反乱を鎮圧するための軍勢の攻撃を受けて殺害されてしまうのでした。
蒋琬には次男もいるよ
蒋琬には蒋斌の他にもう一人男の子がいました。彼の名前は蒋顕といいます。蒋顕は兄とは違い軍人の道に進まずに劉禅の側に仕えていました。
劉禅は魏に降伏すると姜維に「魏へ降伏するようにとの」命令を伝える使者の役割を蒋顕に与えます。蒋顕は降伏の使者として役目をしっかりと果たし、その後兄蒋斌と一緒に鐘会へ降伏。その後は鐘会の反乱に兄とともに巻き込まれてしまい亡くなってしまうのでした。
三国志ライター黒田レンの独り言
蒋顕も兄と同じように鐘会からその才能を愛でられたそうです。蒋琬の息子は二人ともそれなりの人物だったようですが、彼の孫はどのような人物であったのでしょうか。正史三国志やその他の資料を読み漁ったのですが、蒋琬の孫に関する情報を入手することはできませんでした。
もしかしたら蒋斌と蒋顕は若くして亡くなったのかもしれません。また二人には子供がいたかもしれませんが、幼児の時に亡くなったのかもしれません。他にも理由は色々と考えられますが、正史三国志などの資料に記載されていないとなると子孫はいたかもしれない(もしくは子孫がいなかったかもしれない)が歴史書に記載されるほどの活躍をしていなかったのかもしれませんね。
参考 正史三国志蜀書など
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