どうして魏延は叛いた?外様将軍の悲劇

2018年8月13日


 

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魏延

※こちらの記事は「大戦乱!!三国志バトル」専用オリジナルコンテンツです。

 

魏延(ぎえん)は言わずと知れた五虎将軍亡き後の蜀漢の重鎮です。

しかし、魏延の人生は五丈原で諸葛亮(しょかつりょう)が没した後、

孔明(こうめい)が遺言で後任に指名した楊儀(ようぎ)に従わなかった事で

大きく暗転してしまいます。

反逆者として誅殺(ちゅうさつ)の憂き目にあった魏延ですが、

その悲劇は魏延だけの責任ではありませんでした。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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全ては劉備の死を契機に始まった

劉備の死を契機に始まった魏延

 

魏延は荊州義陽郡に生まれ、部曲(ぶきょく)を束ねていました。

部曲というのは私兵団の事で劉備(りゅうび)も部曲の隊長です。

西暦212年、劉備が劉璋(りゅうしょう)の蜀を獲ろうと益州に入ると

魏延もそれに従いしばしば戦功を立てて牙門将(がもんしょう)になりました。

 

牙門将とは、三国志の時代に生まれ晋の時代に引き継がれるのですが

この牙門というのは陣営の門を守る将軍で、特に勇猛であり

時に別動隊として動くこともある機動力の高い将軍です。

いかにもスタンドプレーが大好きな魏延らしい地位です。

 

劉備が魏延を重んじるのは並大抵のものではなく、外界への玄関先であり

戦略的にも超重要である漢中太守(かんちゅうたいしゅ)を任せています。

張飛

 

当時、劉備の周辺では劉備の義弟の張飛(ちょうひ)こそが

漢中太守に任じられると考えられていて

張飛もその気でありましたが、一転して任じられたのは魏延でした。

きっとガッカリした張飛ですが、不満めいた一言もありません。

それだけ魏延の武功が抜群であり認めていたのでしょう。

 

ところが、その引き立ててくれた劉備が夷陵の戦いに敗れて

西暦223年に病死すると魏延の命運にも陰りが生じてきます。

 

諸葛亮と同僚であり部下という不安定な魏延

諸葛亮と同僚であり部下という不安定な魏延

 

劉備の死後に、逸早く劉禅(りゅうぜん)を後継者にして丞相に就任、

蜀漢の権力を握ったのは諸葛孔明でした。

三国志演義では、劉禅の忠臣のように振る舞う孔明ですが、

史実では、呉の孫権(そんけん)も魏の曹叡(そうえい)

蜀の絶対権力者は孔明と言い切っています。

そんな諸葛孔明は魏を討伐する為に北伐の軍を興して漢中に入ります。

 

それ以前、孔明は劉禅の命令で丞相府(じょうしょうふ)を開いていました。

漢中には、(とく)漢中、鎮北将軍、漢中太守として全てを取り仕切る魏延がいたので

孔明は、一度、魏延を解任して自身が漢中の全権を掌握し

その上で魏延を督前部、領丞相司馬(しば)、涼州刺史(しし)に任命し直します。

 

魏延に与えられた領丞相司馬という地位は蜀帝国の役職ではなく丞相府の役職です。

ここで魏延は鎮北将軍としては蜀帝国の将軍として孔明と同僚、、

同時に丞相司馬としては孔明の部下という微妙な地位に置かれました。

この事実、後の魏延の人生に大きく影響しますから覚えておいて下さい。

 

二重の権力、丞相府とは?

魏延を動かす孔明

 

魏延の悲劇を語る前に丞相府について説明しましょう。

丞相府は、丞相や、大将軍、車騎(しゃき)将軍のような高位の将軍が

王なり、皇帝なりの許可を得て開く事が出来る軍事と行政の権限を持った

ミニ政府の事です。

 

耳馴染みのある言葉に言い換えると日本の幕府(ばくふ)と同じものです。

日本でも源頼朝(みなもとのよりとも)足利尊氏(あしかがたかうじ)徳川家康(とくがわいえやす)

天皇により征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられて幕府を開いています。

つまり、あくまで本当の政府は朝廷なんですが、その政府の出張所のような

ミニ政府を幕府と言うのです。

 

諸葛孔明は幕府を開く事で、国家の有能な人材を自分のスタッフとして引き抜き

漢中に事実上の政府を開いて、より効率的に魏と戦えるようにします。

上の記述に戻りますと、孔明は、この丞相府に蜀帝国の臣としては同僚の

魏延を部下として引き込んだわけです。

 

丞相府生え抜きの姜維、楊儀、蔣琬、費禕と対立する魏延

姜維、楊儀、蔣琬、費禕と対立する魏延

 

諸葛亮は魏延の傑出した軍事的才能を買ったのですが、

不遜(ふそん)な性格の魏延は孔明の北伐プランに従いません。

孔明は、祁山(ぎざん)を抑えて涼州を魏から分断し優秀な涼州兵を味方につけようと

時間は掛かるが安全な戦略を採用しますが、魏延は別動隊を率いて、

電撃戦でサッサと長安を落とすべきと主張しました。

 

諸葛亮はこれを却下、魏延はそれが不満で諸葛丞相は臆病者と批判します。

繰り返しますが、蜀帝国の臣としては同僚の魏延にとっては、

いかに丞相府では部下であっても、遠慮する必要は感じませんでした。

 

ですが、諸葛亮に抜擢(ばってき)された生え抜きの丞相府の部下達、

姜維(きょうい)楊儀(ようぎ)費禕(ひい)は違いました。

 

「なんだ魏延のやろう、よそ者のクセして

ウチのボスに大口叩きやがって、嫌な野郎だぜ」

 

この4名は、東曹掾(とうそうえん)倉曹掾(そうそうえん)長史(ちょうし)というような丞相府の役職を得て

孔明に特別に目をかけられた人で、いわば孔明チルドレン・・

彼らから見ると、外様(とざま)の魏延が自分達のボスに偉そうに意見するのは、

全く気に入らない事だったのです。

楊儀にキレる魏延

 

おまけに魏延の方も、劉備と同タイプながら劉備と違い社交性が無い人で

丞相府の面々の機嫌取りもせず、特に楊儀については性格の相違から

剣を抜いて威嚇(いかく)するようなトラブルさえ起こしていました。

 

蜀帝国の臣であり同時に丞相府の臣である魏延は、

その不安定な地位の為、敵を増やす事になってしまうのです。

 

諸葛亮が死去し、楊儀が実権を握った事で魏延の運命は定まった

魏延の運命は定まった

 

それでも、魏延の軍事的な才能を惜しんだ諸葛孔明は魏延を解任せず、

辛抱強く使う事にしましたが、それに終止符が打たれる時が来ます。

西暦234年、第五次北伐の途中、孔明は五丈原に没したのです。

 

孔明は遺言(ゆいごん)で撤退を命じその責任者を楊儀としました。

これに魏延は戦慄します、このまま楊儀が孔明の(ひつぎ)を守り漢中に戻れば

蜀の権力は楊儀が引き継ぎ、楊儀と仲が悪い魏延は粛清されるでしょう。

 

魏延は撤退に猛反対し、丞相が亡くなっても軍は無事だから、

戦争に影響はないと主張して、撤退しようとする楊儀を妨害します。

楊儀と魏延は成都に向かい、お互いが(そむ)いたとデマを流しますが、

成都にいた蔣琬(しょうえん)董允(とういん)

「楊儀の方が信頼できる」と皇帝劉禅に報告しました。

馬岱に切られる魏延

 

この蔣琬も孔明に後継者に指名された人であり孔明チルドレンの一人です。

かくして魏延の運命は定まり、反逆者、朝敵になってしまうのです。

間もなく、魏延の軍勢は王平(おうへい)の大喝で追い散らされ、

魏延は僅かな親族を連れ漢中に逃げますが、馬岱(ばたい)に追跡され殺害されます。

 

豊臣政権における徳川家康のような魏延

徳川家康のような魏延

 

魏延の立ち位置は戦国時代末の豊臣政権の五大老:五奉行の関係に似ています。

 

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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