曹操軍の将軍として前線に立ち続けた夏侯淵、そんな彼は若き日、県官事の役職についている頃に曹操の罪を被って罪人になっています。その後、曹操はその罪を贖い夏侯淵を救い出していますが、服役していた夏侯淵は、どんな刑罰に従事していたのでしょうか?
また、曹操はどのようにして夏侯惇の罪を贖い出獄させたのでしょう。今回も三国志の重箱の隅を突いてみました。
夏侯淵入獄の過程
夏侯淵が入牢に至った経緯は以下のようなものです。
”太祖居家 曾有縣官事 淵代引重罪 太祖營救之 得免”
太祖(曹操)が故郷にいた頃、夏侯淵は県官事だったが、太祖の罪を引き受けて罪に服した。そこで太祖は夏侯淵を営から救い出し罪を免れる事を得た。これだけでは、夏侯淵の服した罪や曹操がどうやって贖ったか分からないので、後漢の時代の刑罰に照らして夏侯淵が服した罪について考えてみます。
夏侯淵が入っていた營とは軍営ではないか?
曹操がどんな罪を犯したかは流石に判然としませんが、夏侯淵がどのような刑罰を受けていたかは營という文字から考える事が出来ます。營とはかがり火で覆われた多くの部屋を持つ邸宅の事で、そこから転じて、組織的に作業をする事、継続的な営みを意味するものに変化していきました。営業とか経営という言葉に今でも残っています。
しかし、同時に營には軍営の意味もあり、当時の労役には、首枷や足枷を免除するかわりに兵士として奉仕する弛刑というものがあった事が分かっています。このように罪人は日常の労務作業ばかりではなく、軍隊の補助として使役されていた事も分かっているのです。
軍営とは?
軍営とは、兵の駐屯地の事です。後漢の時代には、弛刑を課せられた罪人を兵士の補助として、軍営に駐屯させる事が行われていました。主な軍営は、漢王朝を脅かす匈奴や羌や烏桓対策ですから、常に一定の需要は存在しました。後漢書四巻和帝紀永元元年(西暦89年)の冬十月には
郡国の弛刑をして軍営に輸作せしむ。其の徙されて塞を出つる者
刑未だ竟らざると雖も皆な免じて田里に帰す
という文字があり、砦に詰めて兵役に従事した弛刑者が兵役に勤めた事で刑期を短縮され刑期満了の前に故郷に帰されている事が分かります。弛刑はもちろん軍營だけではありませんが、曹操が「營」から救ったという事は夏侯淵が軍営にいたか、軍営に向かう途中ではなかったかと思うのです。
もし、夏侯淵が被った罪が非常に重い時には、弛刑にはならないので營に入る事もないでしょう。実際に、後漢で一番多いのは城内で雑用に従事する労役刑なので夏侯淵のひっかぶった罪は弛刑ではないかと思うのです。仮に夏侯惇が軍営でなくても、城内の労務であり数年の刑期ではなかったかと考えます。
曹操はどうやって夏侯淵の罪を免れさせた
では、逆に罪を被ってもらった曹操は夏侯淵をどうやって解放したのでしょう?記述は罪を免じるとありますから、脱獄させたわけではありません。なんらかの行動で罪を贖い、罪を免じさせたというのが実相でしょう。実は後漢の時代には死刑に至るまで、一定の絹織物を納めるとその人間の罪を免れさせる規定がありました。後漢時代の代償は死罪で絹二十疋、髠刑や首枷、足枷、城内での軽作業については、絹十疋で贖えたと言います。絹十疋は94メートルの長さの絹織物ですが、曹操のような富豪の息子なら難なく用意できたでしょう。
三国志ライターkawausoの独り言
どうせ罪を免れるなら、どうして夏侯淵が曹操の罪を被ったのか?それはやはり、これから任官する曹操のキャリアに傷をつけたくないそういう事だったのではないかと思います。どうしたって、前科と儒教的な道徳は相容れないですからね。そこで考えると夏侯淵は豪族とはいえ、特に身分があるわけではなくキャリア官僚になるわけでもないので、前科がついたとしても大きな問題ではなかったかも知れません。
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