我々が親しむ『三国志』にまつわるゲームや漫画のほとんどは明代に編まれた小説『三国志演義』を下敷きにしています。
そんな小説『三国志演義』もまた、三国時代が終わってすぐの西晋時代に陳寿によって編まれた正史『三国志』をベースにしているわけですが、おそらく陳寿の『三国志』が「そのまま」だったら、『三国志演義』が生み出されることはなかったでしょう。
本文と注の分量がほぼ同じ
え?なんで?頭の中に疑問符がたくさん浮かんだ人もいるでしょう。そんなあなたは一度正史『三国志』を手に取ってさらっとでもいいので目を通してみるといいでしょう。
おそらくあなたはあることに気づきます。「…なんかこの本、本文よりも注釈の方が多いのでは?」そう、この陳寿による正史『三国志』、実はほぼ半分もしくはそれ以上が注で構成されているのです。そして、その注には「~曰」といった調子であらゆる書物の記述が引かれています。では、この膨大な量の注は、一体誰が何のために付けたのでしょうか?
文帝、陳寿『三国志』にご不満
陳寿が仕えた西晋王朝も八王の乱によって弱体化した挙句、隙を見て襲い掛かってきた匈奴によって滅ぼされ、今度は南の方で東晋王朝が建ったと思ったら、ギラついた部下・劉裕に無理矢理禅譲させられて劉氏による南朝宋が興ります。
そんな六朝時代は、王朝の移り変わりこそ目まぐるしかったものの、後に漢民族の誇りともなる詩文や書を愛する文化が根付いた時代でもありました。というわけで、南朝宋の文帝も読書を愛していたのですが、彼は陳寿が編んだ『三国志』を読んでそのつまらなさに絶句。
歴史の教科書ばりに、いや、それ以上に簡素な内容の陳寿の『三国志』はおそらく先に『史記』や『漢書』を読んだであろう文帝にとってはとてつもなくつまらなく感じたことでしょう…。この『三国志』を何とかして面白くしてほしい…。そう思った文帝は歴史に明るいと専ら評判だった裴松之に『三国志』の注をつくるよう命じます。
かくして、文帝を喜ばせるべく、裴松之の『三国志』注執筆作業がはじまったのでした。
とりあえず、あらゆる文献を引用
裴松之は『三国志』に注をつける作業にとりかかるべく、まずは三国それぞれの国にまつわる出来事が著された文献を片っ端から集めて読み漁りました。その文献はそれぞれの国の賢人たちが著した自国伝であったり、その地方独自の地方史であったり、かと思えば出所が怪しい上に内容も信用できない俗っぽい書物であったりと様々でした。
普通、注を付ける際にはそれらの文献を読んで正誤を判断し、正しいものを選び抜いて注に引用するものですが、裴松之は一味違う注釈者でした。ありとあらゆる文献を片っ端から引用しまくり、正誤の判断を読者にゆだねたのです。それが歴史的事実かどうかはさておき、裴松之注によって三国時代のあらゆる人物や戦にまつわる様々な伝説を一度に読み比べられるようになったということで簡略なことで有名だった陳寿『三国志』はガラリと趣を変え、読み応えのある面白い作品になったのでした。
裴松之注の意外な功績
仕上がった注を受け取った文帝は、一通り読んでその面白さに感嘆。「これは後世に残る不朽の名作だ!」と裴松之の功績を褒め称えました。そんな裴松之注はやはり文帝の言葉通り後世の人々にも読み継がれ、軍談によって日銭を稼ぐ講釈師たちの格好の話のネタとなり、ついには『三国志演義』が生み出されるに至ったのでした。
史書の中でもつまらなかった陳寿の『三国志』を後に四大奇書と称される小説『三国志演義』のベースとなるまでに叩き上げたことだけでも十分に素晴らしい裴松之注ですが、その功績は他にもあるのです。それは、今は散逸してしまった書物も引用しているということ。今のように印刷技術が発達していなかった時代の書物は人の手で書き写されることによって複製されていました。人力ですから、当然写し間違えることもありました。
その間違いがそのまま書き写され、更に別の箇所が写し間違えられ、そして更に書き写され、別の箇所を映し間違え…という具合に間違いがどんどんどんどん増えていき、書物は時代が下るにつれて元の姿を失っていきました。しかし、伝わっているだけましと考えるべきでしょう。なぜならほとんどの書物は誰にも書き写されることなく、戦争やら火事やらで失われてしまっているのですから。
三国志ライターchopsticksの独り言
消えてしまった書物は見られませんが、諦めるのは時期尚早です。散逸してしまった書物も、その書物を引用している文献を通して部分的に読むことができます。そんな大切な文献の1つとされているものこそが、裴松之の『三国志』注。裴松之注は、散逸した書物を読み解くための大切な手がかりなのです。
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