司馬遷が著した『史記』は武帝に屈辱を受けたことによる激情から成った大作として名高い歴史書です。そんな『史記』には至るところに司馬遷の思いが込められています。その中でも有名なのは列伝の筆頭に据えられている人物が、伯夷・叔斉という兄弟であるということ。
司馬遷はなぜ彼らを列伝の筆頭に置いたのでしょうか?司馬遷の心を紐解くために、伯夷・叔斉とはどのような人物であったのかを紹介したいと思います。
孤竹国の王子様
殷の時代に生まれた伯夷・叔斉は孤竹国という小さな国の王子でした。実は彼らは3人兄弟で、伯夷は長男で叔斉は三男、そして次男に仲馮という人物がいたそうです。仲睦まじい兄弟だったようですが、ある時彼らの父親は「三男の叔斉を王とするように」という遺言を残して亡くなってしまいます。
こういった場合、血みどろの兄弟喧嘩が勃発して結局家が滅茶苦茶になるのがお約束パターンですが、本来王位継承権を持つはずの長男・伯夷は弟を王に立てることをあっさり認めたのでした。というわけでめでたしめでたしのハッピーエンドかと思われましたが、今度は「お兄ちゃんを差し置いて王になんてなれないよ!」とブラザーコンプレックス全開の叔斉が王位を固辞します。
「自分がいたのでは、弟の決断が鈍ってしまう…。」そう考えた伯夷は国を捨てて他国に逃亡。ところが叔斉、なんと王位を捨てて兄の後を追いかけるという兄ラブぶりを発揮します。これにより王位継承者候補2人がいなくなって困ってしまった孤竹国では、次男・仲馮が王に立てられることになったのでした。
周の文王に仕えたい!しかし…
2人で身を寄せ合いながら広大な大地を彷徨うことになった伯夷・叔斉ですが、後に周の文王と称される姫昌が素晴らしい人物であるとの噂を聞いて周の地に向かうことにします。しかし、2人がようやく周にたどり着いたときには既に文王は亡くなっており、息子の武王が殷の紂王を滅ぼさんと鼻息を荒くしていたのでした。
このことを知った伯夷・叔斉は怒りに震え、今まさに殷に出征しようとしている武王の馬車をドンドン叩きながら「父が死んでそれほど時間が経っていないのに喪にも服さず戦争を起こすなんて親不孝です!主君の紂王を討つなんて仁の道に背くことです!」と猛抗議。
2人は危うく殺されるところでしたが、周の軍師である太公望・呂尚が「彼らは正しい!手出しをするな!」と叫んだために無罪放免されたのでした。しかし、2人の決死の直談判も虚しく、結局殷王朝は滅ぼされ周の時代が始まります。2人はこのことを嘆いて山西省の西南部にある首陽山に隠れて暮らしはじめたのでした。
ワラビだけを食べて暮らす
伯夷・叔斉兄弟は殷を滅ぼした周を恨み、「不仁の周王朝の飯など食べられない!」と言って山でワラビだけを食べて過ごしたと言います。とてもヘルシーでベジタリアンの鑑とも言える彼らですが、そんな偏った食生活をしていたら栄養失調になること請け合い。殷の紂王の暴力を戦争という暴力で解決した気になっている周について非難する詩を死の間際に遺し、2人の仲睦まじい兄弟は息を引き取ったのでした。
司馬遷のメッセージ
正義が行われない世を恨んで死んでいった伯夷・叔斉に対し、司馬遷は深い共感を覚えたといいます。正しいことが正しいこととして認められず、むしろ正しいことを貫こうとすればするほど自分の首が締まっていく…。理不尽な理由によって罪と汚名を着せられた司馬遷はそのような理不尽な世の中を恨む気持ちが特に強かったのでしょう。司馬遷が伯夷・叔斉を『史記』の列伝の筆頭に掲げた背景には読者にも世の理不尽に憤りを持ってほしい、後生に世の理不尽を正してほしいという願いが込められていたのです。
三国志ライターchopsticksの独り言
暴君・紂王をやっつけた武王は正義の人というイメージが強いですが、伯夷・叔斉の言うように暴力で暴力を解決したという点では紂王と大差なかったのかもしれません。結局周王朝の凋落の原因も殷王朝の滅亡原因と似ていますし、2人の言葉は真理を突いていたといえるでしょう。
もし武王が伯夷・叔斉の言葉を聞き入れていたとしたら、中国の歴史はどのようなものになっていたのでしょうか?想像してみると面白いかもしれませんね。
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