史書といえば『史記』。その『史記』を編纂したのは前漢の人・司馬遷でした。神話時代から前漢武帝の時代までの歴史を生き生きとした文体で描き出した司馬遷。実はその躍動感あふれる『史記』の文章には、司馬遷の激情が託されているのです。
中島敦も描いた壮絶すぎる執筆秘話
高校時代、虎になってしまった男の物語を読んだことはありませんか。隴西の李徴は博学才頴、…とまるで本物の史書の冒頭文のような書き出しから始まる『山月記』。その『山月記』の作者、文豪・中島敦は司馬遷の『史記』執筆の裏側を描いた小説も手掛けています。そのタイトルは『李陵』。李陵とは、司馬遷の人生を大いに狂わせた人物でした。
武帝の逆鱗に触れる
司馬家は代々歴史を扱ってきた一族。そのため司馬遷も大史公の官に就いていました。若い頃より武帝の行幸に同行し、その地方の歴史にまつわる逸話を収集するなど、順風満帆な日々を過ごしていました。
ところが、転機は突然訪れます。なんと、友人・李陵が敵である匈奴に降ったとの一報が入ったのです。怒り狂う武帝と臣下たちが口々に李陵を糾弾する中で、ただ一人、司馬遷だけが懸命に李陵を庇います。しかし、その言葉は却って火に油を注ぐことに。逆鱗に触れた司馬遷は投獄されてしまったのでした。賄賂を払うこともできなかった司馬遷は牢獄の中で友を信じて過ごしていました。
一方、多少頭が冷えた武帝は、それまでの李陵の武功を思い出します。武帝は李陵救出のために兵を出すなど手を尽くしましたが、なかなかどうしてうまくいかず、ヤキモキしていました。ところが、武帝の好意を逆なでするような一報が届きます。なんと李陵が匈奴の兵の訓練を指導しているというのです。救出軍まで派遣した武帝の怒りのボルテージはMAXに。
武帝はすぐさま李陵の一族郎党をかき集めて死を賜り、それだけでは飽き足らず、その怒りの矛先を、李陵をかばった司馬遷にまで向けたのでした。司馬遷は去勢することにより罪を背負いながら生きる宮刑か、死を以て罪を償う死刑か、史上最悪の二者択一を迫られます。
屈辱を背負いながら、それでも生きたかった司馬遷
司馬遷は死を選びませんでした。司馬遷にはどうしても成し遂げたいことがあったのです。
それこそが、父・司馬談に託された歴史書『史記』の完成という使命でした。親からもらった大切な体を傷つける上に、子孫を成せない不孝者として生きていくのは、司馬遷にとってはとても辛い選択だったはず。その屈辱を背負うことと父から託された思いを心の中で天秤にかけたとき、天秤が掲げたのは言うまでもなくその屈辱を甘んじて受け入れることだったのです。
荒れ狂う筆に現れる司馬遷の激情
『史記』には口語的表現が多いと指摘されています。実は大昔からそのことが指摘されており、後に『漢書』を著した班固も、司馬遷の『史記』の文章を煩雑で無駄な言葉が多いと批判しています。ところが、この口語表現の多さが司馬遷の文章の良さとも言えるのです。司馬遷の文章には「乎」や「也」といった助字が多く使われています。しかし、当時は助字を多く用いるのは俗っぽく、文章全体が重たくなるということで忌避されるようになっていました。
それでも、あるがままの言葉で豪快に記された『史記』の方が、その登場人物の息遣いまで聞こえてくるようで、読んでいて真に迫るものが感じられて仕方ありません。
『史記』に込めたメッセージ
司馬遷の『史記』の特徴として挙げられるのは、紀伝体と呼ばれる書式を取ったことです。それまで、歴史を記した書物といえば、『春秋』。そして、その『春秋』は、年代順に出来事を記していく編年体をとっていました。では、なぜ司馬遷は紀伝体で『史記』を記したのでしょう。『春秋』が時に焦点を置いていたと考えるならば、『史記』は人物に焦点を置いていたと考えることができます。
それぞれの皇帝、諸侯、大夫、儒者、その他歴史に名を遺すにふさわしい人物一人ひとりを主軸に据え、その人物の人生を描く…。司馬遷は、その各人物の生き方に対する評価や、その人物の人生からくみ取れる教訓をその末尾に書きつけました。…後の人を助ける糧となることを祈りながら。
しかし、言葉ではない部分にも司馬遷のメッセージが見え隠れするとの指摘もされています。どうやら、その列伝の最初に挙げられている人物が伯夷・叔斉兄弟であることにも何か意味が込められているのだとか。司馬遷の言葉にならなかった叫びを探してみるのもまた一興。たまには、『史記』の世界にじっくり浸かってみるのも悪くないでしょう。
※この記事は、はじめての三国志に投稿された記事を再構成したものです。
元記事:誇りを失ってもなお『史記』を書いた司馬遷の執念
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