五代友厚は北海道開拓使官有物払下げ事件やNHKの連続テレビ小説『あさが来た』で有名になりました。大阪市の商工会議所に五代友厚の銅像があり、五代友厚は関西と縁があります。五代友厚は薩摩藩の藩士の頃から長崎の外国商人グラバーのもとに出入りしていました。グラバーのもとに出入りしていたのは薩摩藩士の小松帯刀、長州藩の伊藤博文と井上馨でした。
長崎で外国人の商人のところに出入りしていたことから商売を覚えたと考えられます。この記事では、五代友厚について薩摩藩士の頃から新政府の貨幣政策を一手に担い、大阪経済を再生するまでに至った功績について紹介します。
世界地図を目の当たりにした五代
五代友厚は薩摩藩士の父・五代直左衛門秀尭のもとで生まれました。父は薩摩藩の記録奉行で藩主島津斉彬の側近くに仕えていたため、五代友厚は14歳のときから世界地図を模写するよう命じられました。模写した地図を参考に自作の地球儀を作ったことがあります。
五代が23歳のとき長崎の海軍伝習所に派遣されました。薩摩藩から五代含め16人が派遣されました。五代は長崎の海軍伝習所で航海術・砲術・測量・数学などを学びました。また、幕府の勝海舟や榎本武揚、同藩の寺島宗則とも親交を深めまました。
藩の貿易係を仰せつかった五代
1865年、藩の命令により寺島宗則や森有礼らとともに薩摩藩遣英使節団として英国に出発しました。欧州各地を訪問し、ベルギーのブリュッセルでモンブランと貿易商社設立契約に調印しました。諸要因により失敗に終わりましたが、この経験が五代友厚の経営手腕に大きな影響を与えることになりました。1866年、五代友厚は薩摩藩の会計係に就任しました。会計係に就任すると、長崎のグラバーと合弁で長崎小菅にドックを開設するなど実業家の手腕を発揮し始めます。
幕府倒幕後、明治新政府の参与職外国事務掛となり、外国官権判事や大阪府権判事を兼任して大阪に赴任し、堺事件やイギリス公使パークス襲撃事件などの外交処理にあたりました。また、大阪に造幣寮(現・造幣局)を誘致し、初代大阪税関長となりました。
衰退する大阪の経済を復興させた五代
五代友厚は大阪に造幣寮を誘致することに成功しましたが、明治初期の大阪経済は低迷していました。大坂経済低迷の要因として銀主体の商取引の廃止や藩債の整理による富豪や両替商の資産消失が挙げられます。
このような事態を打開するために財界指導者の有志15名が1878年7月に大阪商法会議所設立の嘆願書を大阪政府に提出しました。後に大阪商工会議所の基礎となります。設立背景として、国内に事件がおこると常にドサクサに紛れて金儲けをする者が増えました。ドサクサに紛れて金儲けをするのを防ぐため、また互いに助け合うために実業家たちの一致団結による協力と意見交換の場が必要とする考えに至りました。五代友厚は強引な方法で会員を獲得し、初代大阪商工会議所会頭になりました。設立したころの商工会議所の創立委員の中には鴻池善右衛門や三井元之助(のちの三井財閥)がいました。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
今回は大阪再生の立役者としての五代友厚について取り上げました。連続テレビ小説『あさが来た』で、ディーンフジオカが演じてから五代に対する見方が変わった人が多いと思います。
『あさが来た』が放送される前、ほとんどの人は五代友厚のことを北海道開拓使官有物払下げ事件の人という印象を受けていると思いますが、放送後の五代友厚を大阪経済の立て直しに貢献した人物として見方が変わった人が多いと思います。今後、大久保利通のように大阪遷都を計画した人物に注目したいと思います。
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