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古代中国の牢獄生活、想像を絶する[厳しさ]とは?

2024年5月13日


 

檻に入れられる罪人

 

「将来食いっぱぐれそうになったら刑務所入ろ」なんて言っている人は身近にいませんか?

 

彼らの本気度がいかほどのものかは測りかねますが、事実、生活に困って万引きなどをしてわざと捕まり、刑務所に入ってご飯にありついているという人は少なくないみたいです。どうやら最近の刑務所はご飯が食べられるということ以外にもたくさんのメリットがあるようです。

 

冬でもあたたかい部屋で寝起きできますし、病気になればタダでお医者さんに診てもらえます。そしてどうやら新しい刑務所では個室も完備されているのだとか…!これは将来…おっとこれ以上は言いませんよ!ところで、古代中国の牢獄はどのようなところだったのでしょうか?少なくとも今の刑務所よりも居心地が悪かったことは確かでしょうが…。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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夏の時代に牢獄がつくられた

檻

 

中国の歴史を読んでいると、偉い人の気に障ることをした人は必ずと言っていいほど死刑になるか牢獄にぶち込まれるかしていますよね。中国史において数えきれないほどの人が放り込まれた牢獄ですが、その歴史は伝説の夏王朝から始まります

 

夏王朝を興した()の子・(けい)は、中国史上初めて実の親から天子の位を譲り受けた人物です。そしてこの啓は、中国史上初めて牢獄を作った人物でもあります。彼が創り出した牢獄は「釣台」もしくは「夏台」と呼ばれています。この「釣台」、実はそれらしき遺跡が発掘されているのです…!

 

その遺跡は河南省禹州市にあります。「台」というくらいですから、小高い丘の上に建てられた監獄をイメージしてしまいそうですが、写真を見る限り牢獄自体は地面を掘って作られていたみたいです。そしてこの牢獄、別名「圜土」とも呼ばれているのですが、この名前から類推するに、当時の牢獄の形は円形だったようです。

 

中には地上に円形の壁を築いて作られた牢獄もあったのだとか。角をつくるとよじ登って脱出しやすくなるため、それを防ごうと考えたのでしょうか。ちなみにこの「釣台」には後に殷王朝を興す湯王が夏の桀王によって収監されていたことがあるそうです。

 

 

なぜかほとんどの文献に牢獄の詳細は書かれていない

書籍

 

夏王朝以降も殷王朝には「羑里」、周王朝には「囹圄」という牢獄があったとされていますが、これらは全て「圜土」に分類されるものだったようです。しかし、秦以降の牢獄がどのようなところであったのかは、どの文献を当たってみても見つけることができません。秦以降に牢獄は無くなったのでしょうか?いえいえ、もしそうならば、史書の投獄シーンだって無くなるはずです。

 

そのため、一応牢獄は存在していたと考えるべきでしょう。それでも、その存在の詳細が明かされていないのは、もしかすると牢獄の存在は王朝にとって隠しておきたいものだったからかもしれません

 

「法」の力で国を治めていた秦はともかく、以降の王朝は主君すなわち天子の「徳」によって人民を治めるというのが基本スタンスでした。そのため、天子は罪を犯した人民をも、その「徳」で感化して更生させるべきだと考えられていたはずです。それなのに、「法」の権化ともいえる牢獄の存在を堂々と明かしてしまえば、天子の力量不足が疑われてしまうでしょう。

 

 

そもそも牢獄って感じではなかった…?

洛陽

 

天子たちのメンツを保つためにその存在にモヤがかけられているらしい牢獄。でも実際に罪人は牢獄に送られていたという記述がありますから、牢獄は間違いなく存在していたはずです。しかし、そもそも我々が想像している牢獄とその当時の牢獄とはちょっと違うのではないか…?という説もあるようです。

 

飯尾秀幸(イイオヒデユキ)「秦・前漢初期における里の内と外――牢獄成立前史――」によれば、どうやら前漢時代には牢獄という施設は存在せず、罪人は里の外側に住まわされただけであったようなのです。

 

昼は里内であらゆる雑役をこなすことを課せられ、夜は里の外側で暮らしていただけで、ずーっと狭い部屋に住まわされていたわけではないっぽい当時の囚人たち。しかも、中には里の中の人と結婚する囚人もいたのだとか…!今でも獄中結婚はありますが、その当時の獄中結婚は昼間であればいつでも会えるということで今よりもずっと敷居が低そうです。

 

 

 

三国志ライター chopsticksの独り言

三国志ライター chopsticks

 

 

しかし、昼間だけ会える旦那は常に真っ赤な服を着ており、額には罪名などが彫られていた模様。う~ん、昼間はけっこう自由でも、額に恥ずかしい入れ墨が彫られているんじゃむしろずっと牢獄に閉じこもっていた方がましなような気がします…。

 

 

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清朝考証学を勉強中。 銭大昕の史学考証が専門。 片田舎で隠者さながらの晴耕雨読の日々を満喫中。 好きな歴史人物: 諸葛亮、陶淵明、銭大昕 何か一言: 皆さんのお役に立てるような情報を発信できればと思っています。 どうぞよろしくお願いいたします。

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