三国志の時代の防犯はどんな方法があったの?三国志時代の犯罪防止法!

2016年11月19日


 

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阿会喃(あかいなん)と猛獲

 

凶悪犯罪が近代だけのモノと思ったら、大間違いです。すでに1800年前の三国志の時代にだって凶悪犯罪はありました。当時の人々は、いつ起きるか分らない犯罪を警戒し、それに備えて様々な防犯方法を考え出していたのです。今回は、三国志時代の犯罪防止法を紹介していきます。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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奏讞書に記された身勝手な凶悪犯罪

水滸伝って何? 書類や本

 

三国志の時代からは、400年程、遡りますが、奏讞書(そうげんしょ)という秦の裁判記録から、一つの凶悪犯罪の事例を見てみましょう。

 

逃亡兵の妻子(女性)に処罰を加える法律

 

紀元前241年の秦、秦王政の六年の事、一人の女の召使いが、雨の中、傘を差しながら歩いていると、突如背後から何者かに突き倒され地面に転んでしまいました。

 

女がハッとして気がつくと、背負ってきた1200銭の銭の束がありません。大声で「泥棒!」と叫ぶと、近くに住む齔(しん)という少女が飛び出してきて開口一番、

 

「大変、背中にナイフが刺さっているわ!」

 

女の背中に突き刺さったナイフは全長20センチもある大きなモノ、幸い急所は外れていて、召使いの女の命に別条はありませんでしたが、もう少し、ナイフの刺さる場所がズレれば死んでいたかも知れません。

 

暗殺に成功する聶政

 

この事件の犯人は、孔(こう)という不良少年で「遊び金欲しさにやった」と犯行を自供しています。動機も短絡的な思考も今の犯罪と大差ありませんね。

 

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数十万の人間が住む大都市では太鼓がサイレンの代わりだった。

洛陽城

 

三国志の時代でも、洛陽や長安のような大都市では人口は数十万を数え、富める人間もいれば、その日の寝床さえない貧しい人もいました。必然的に犯罪は激増し、特に砂塵が舞い飛ぶ、黄昏時に強盗殺人事件が、頻繁に起きていたと言われています。

 

西遊記巻物 書物_書類

 

漢書の張敞(ちょうしょう)伝によると、前漢の末期は社会が混乱して凶悪事件が多く、あまりにひっきりなしだったので張敞は一計を案じて賊の親玉を懐柔して更生させ犯罪を減らす事に成功したという記述があります。

 

※参考文献 漢書

 

太鼓 村人 防犯

 

犯罪が発生すると、当時の役人は、櫓に登り太鼓を叩いて、周囲に犯罪が発生した事を知らせていました。呑気に見える古代ですが、すでに大都市では現代のサイレンのように、犯罪の発生を知らせる太鼓が鳴り響いていたとは驚きです。

 

力の限り叫べ!大声を挙げて、太鼓を叩いて犯罪予防

禰衡3

 

また、これは「隋唐嘉話」という本にある話で唐の時代の事ですが、夜明け前と夕方には役人が太鼓を打ち鳴らし、大声を張り上げて、犯罪に注意するように呼びかけていたようです。

 

「知らないヤツには近づくな! 出歩く時は周囲を見よう!」

 

などと、交通標語のような事を叫んだかも知れません。これにより、これから犯罪に走ろうという人へ向けた抑止効果もあったのでしょう。しかし、朝と晩に大声を張り上げる苦肉の策を見ていると、当時の役人も犯罪には手を焼いていた様子が見えるようです。

 

武器を持って頬っかむりする事禁止!

楊奉 ゆるキャラ

 

漢の時代の法律には、武器を携帯し、頬っかむりで顔を隠す事を禁止するという法律がありました。それを破れば逮捕という事でしょうが、武器は分るとして頬っかむりもダメという事は、当時の犯罪者は、顔を頭巾で隠していたという事かも知れません。なんだか、サザエさんに出てくる古典的な泥棒みたいで妙に親近感が湧くスタイルですね。

 

洒落にならない、夜中に街を出歩くと死刑!!

暗殺計画自慢の董承08 曹操

 

三国志の時代には、外灯などありませんから、夜は真っ暗です。おまけに市街地もそれぞれの区画ごとに設置された門も閉じます。ですから、夜中に歩く人間は、人殺しか盗人と見なされ、問答無用で犯罪者扱いで殺されました。

 

怒る曹操

 

曹操(そうそう)がまだ若く、洛陽北部の門で都尉をしていた頃、皇帝お気に入りの宦官、蹇碵(けんせき)の叔父が自分も偉くなったものと錯覚し我が物顔で夜中に城門を潜ろうとし曹操に逮捕されて罰として棒で叩かれ死んだ事があります。

 

禰衡

 

この話だけ見ると、曹操厳しすぎと思いますが、実際には曹操は法律を順守しただけなのです。

 

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三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

いかがだったでしょうか?三国志の時代の防犯方法。太鼓を鳴らして犯罪を知らせる、夜間の外出を禁止するなどは、今でも通用しそうですが、頬かむり禁止などは時代がうかがえて現在からはコントのようです。

 

朝まで三国志2017表情 kawausoさん03 怒

 

ただ夜中に門を出入りすると死刑になるのは洒落にならない位に厳しい決まりです。これなら、帰るのが遅くなったら、城門をくぐらず野宿した方がマシに思えますね。でも、そうなると盗賊に狙われそうですけど・・

 

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三国志ライフ

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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