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伊達宗城の偉業に驚愕!四賢候の知られざる[功績]

2024年6月14日


伊達宗城

 

 

幕末に雄藩の一つとして宇和島藩が台頭し、藩主の伊達宗城(だてむねなり)が有名になります。伊達と言えば仙台藩の伊達氏を思い浮かべるかもしれませんが、幕末は宇和島藩の伊達氏が台頭します。宇和島藩の伊達氏は仙台藩の伊達氏の分家ですが、本家仙台藩の伊達氏と意外な形で格差が出ます。この記事では、本家との立場の違いと伊達宗城の功績について取り上げます。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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本家は仙台伊達藩・分家の藩主だった伊達宗城の立場とは?

 

伊達宗城は1844年に養父伊達宗紀(だてむねただ)の隠居に伴い、宇和島藩の藩主になりました。当時の宇和島藩は殖産興業(しょくさんこうぎょう)を中心とした藩政改革を行っていました。藩政改革の一環として木蝋の専売化を行いました。

 

大村益次郎 幕末

 

 

伊達宗城は幕府から追われ江戸で潜伏していた高野長英(たかのちょうえい)を招き、さらに長州より大村益次郎(おおむらますじろう)(当時、村田蔵六(むらたぞうろく))を招き軍の西洋化に着手しました。雄藩として台頭すると、伊達宗城は松平春嶽(まつだいらしゅんがく)山内容堂(やまのうちようどう)島津斉彬(しまづなりあきら)とも交流を持つようになります。伊達宗城らは「四賢侯(しけんこう)」と呼ばれました。彼らは老中だった阿部正弘(あべまさひろ)に積極的に幕政改革の意見を訴えました。

 

 

井伊直弼

 

 

 

阿部正弘死去後、1858年に大老に就いた井伊直弼(いいなおすけ)将軍継嗣問題(しょうぐんけいしもんだい)で真っ向から対立しました。伊達宗城は、13代将軍・徳川家定(とくがわいえさだ)の将軍後継者として、松平春嶽・島津斉彬・徳川斉昭(とくがわなりあき)らとともに一橋(ひとつばし)(徳川)慶喜(よしのぶ)を推しました。彼らは一橋派と呼ばれています。

 

 

徳川家茂

 

 

 

一方、井伊直弼は紀州藩主・徳川慶福(とくがわよしとみ)を推しました。直弼は大老強権を発動し、慶福が14代将軍・家茂(いえもち)となりました。一橋派は安政の大獄により排除されました。これにより伊達宗城らは隠居謹慎(いんきょきんしん)を命じられ隠居謹慎処分を受けた宗城は、宗紀の実子・宗徳(むねのり)を養子として藩主を譲りましたが、藩政に影響を与えました。謹慎を解かれてからも幕府に積極的に関与するようになりました。伊達宗城は仙台藩の伊達氏とは異なり、分家であることでしがらみを気にすることなく、藩政改革や幕政に関与することができたと考えられます。

 

 

蒸気船を初めて作らせた伊達宗城

 

伊達宗城は分家でしがらみを気にする必要がなかったので、様々な藩政改革に取り組むことができました。ここでは伊達宗城の功績について取り上げます。宗城の長所として人を見る目が優れていることが挙げられます。長州藩から大村益次郎を招いて蒸気船の製造を命じました。大村益次郎はオランダ語を読むことができましたが、西洋の蒸気船の技術については素人でした。しかし、宗城は西洋の技術書を読むことができるだろうという理由で西洋の蒸気船の製造を命じました。

 

日本人だけでしかもほぼ専門外の人たちによって西洋の蒸気船が製造できないと思われていましたが、結果として日本人だけで蒸気船を製造することに成功しました。蒸気船の建造に成功するとは誰も思っていませんでした。蒸気船の製造によって次のような影響が出ました。大村益次郎は軍事技術の研究に目覚め、その研究に力を注ぐようになりました。大村は明治政府で日本の軍隊制度の基礎をつくりあげました。

 

 

幕府に愛想を尽かし、新政府側につくことになる伊達宗城

 

1862年8月、伊達宗城・松平春嶽ら四賢侯は徳川慶喜・松平容保(まつだいらかたもり)らとともに国政を議する参預会議(さんよかいぎ)に参加しました。島津久光(しまづひさみつ)を嫌った徳川慶喜の非協力的態度により、短期間で崩壊しました。

 

徳川慶喜が15代将軍となってから1867年6月に、四侯会議が開かれました。薩摩藩は幕府の権威を削減し、雄藩連合による合議をもってこれに代えようとしましたが、慶喜の巧みな懐柔により雄藩連合による合議制はなくなりました。その後、山内容堂は慶喜に対し大政奉還(たいせいほうかん)を建白したことで江戸幕府は終わりました。

 

伊達宗城

 

一方で、徳川慶喜は伊達宗城を重用しようとしましたが、徳川慶喜が島津久光を嫌ったことで会議は崩壊しました。その後、伊達宗城は幕府に愛想を尽かし新政府側につくことを決意したと考えられます。

 

 

仙台伊達家と宇和島伊達家の意外な格差・この時宗城はどう思った?

新政府

 

戊辰戦争で宇和島藩は新政府側につきましたが、仙台伊達藩は旧幕府側につきました。同じ伊達で敵と味方に分かれることになりました。伊達宗城は明治新政府に加わっています。元藩主が明治新政府に加わったのは伊達宗城だけで他にほとんど事例がありません。伊達宗城は外交や財政に才能があり、鉄道建設に必要な費用をイギリスから借り受ける交渉に成功したり、日清修好条規を結んで中国と対等な関係を樹立したりするなど才能を発揮しました。

 

伊達宗城は中央政界より引退しましたが、宇和島伊達家は伯爵(はくしゃく)に任命されました。結果として、仙台伊達家を上回ることになりました。戊辰戦争で敵か味方かの差はあるにしても分家が本家を上回るという微妙な感じになりました。

 

 

幕末ライターオフィス樋口の独り言

三国志ライター オフィス樋口

 

この記事では、伊達宗城について雄藩として台頭した経緯、戊辰戦争で敵味方として戦ったこと、伯爵という地位を授けられたことで分家が本家を上回ったことを取り上げました。戊辰戦争で本家と分家が戦った事例に注目したいと思います。

 

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オフィス樋口

自己紹介:フリーランスで予備校の講師をしています。 歴史が好きで、予備校では主に日本史を指導しています。 センター試験の点数を40点台から80点台に伸ばした実績があります。 好きな歴史人物:徳川慶喜(理由:多趣味であることが共通しているから)

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