関羽、張飛といった名将を失い、それを悲嘆した劉備も病に臥して亡くなり、もはや蜀漢の命運は諸葛亮に託されました。劉備の死は魏の曹丕や呉の孫権を小躍りさせます。二国は諸葛亮に降伏するよう勧告しますが、諸葛亮は毅然とした態度でこれをはねつけます。
しかし、今度は南蛮の豪族たちが蜀漢に反旗を翻します。これを受け、諸葛亮は南蛮征伐に向かうのですが、気候、地理、武器などなど、あらゆるものが違いすぎる相手に苦戦を強いられます。
特に苦戦を強いられたのは、巨大な象を操る象兵部隊。しかし、これはあくまで『三国志演義』での話。正史『三国志』を盛りに持っている『三国志演義』ですから、創作である可能性は否めません。はたして三国時代に象は戦いに用いられていたのでしょうか?
4000年前から象は飼われていた?
象といえばインドゾウが思い浮かびますよね。インドには象の顔をしたガネーシャという神様もいらっしゃいます。そのくらい、インドの人々にとって馴染み深いインドゾウ。なんと、インドの人々は4000年以上も前からインド象を飼いならしていたのだとか。彼らがインド象を飼いならしはじめたのは農耕の補助をさせようと思ったからのよう。あの巨体と馬力があれば、畑を耕すのも楽々できちゃいますものね。
戦象の登場
農耕で活躍した象さんですが、その力が戦に使われ始めたのは紀元前1100年頃と言われています。雑兵どもをたちどころに蹴散らすその戦いぶりを讃える歌がたくさん残っているのだそうです。戦象の力がヨーロッパにも知らしめられたのは、あのアレクサンドロス大王が東征を行った紀元前300年頃。ペルシア帝国のダレイオス3世がガウガメラの戦いで戦象を使用したようです。また、インドに進出した際にも、パンジャブ王国がヒュダスペス河畔の戦いで象を駆使して戦ったとの記録が残っています。この戦象にアレクサンドロス大王はひどく痛めつけられたようです。
殷の戦象
中国でもかつては中華象や中華サイが中原を闊歩していたようです。今では中国大陸で象を見かけるなんてこともありませんが、当時はけっこうな確率でエンカウントしたのだそう。インドの人々がインド象を調教したように、殷の人々も中華象を調教し、彼らを農耕に従事させていました。そしてやはりそのパワーは次第に戦に用いられるようになっていき、象兵部隊が作られるようになります。
あの暴君として名高い紂王も異民族討伐に戦象を駆使していたのだとか。実際、殷の遺跡・殷墟からは象のお墓が見つかっています。お墓を立ててもらえるほど、象は殷に貢献していたのでしょう。
戦国の七雄・楚も戦象を活用
少し時代が下って、春秋・戦国時代になっても、象は戦で活躍していたようです。『春秋左氏伝』には、楚軍が象の尾に火を縛り付けて呉軍の陣に放ち、尻を焼かれて暴れ狂う象に驚いた呉軍は退却したとあります。戦国時代を舞台とするあの原泰久『キングダム』でも楚軍が戦象を駆使して戦う描写がありましたね。この頃には南の方でしか象は使われていなかったのでしょうか?
中華象の絶滅
はるか昔は温暖湿潤であった中原の気候も、時代が下るにつれて寒さの厳しい冬が訪れる気候に変動していきました。また、農耕や戦の友としてだけではなく、宝飾品として象牙を手に入れたいという者たちによって象の乱獲が行われ、おびただしい数の象が死んでいきました。象は妊娠期間が長い上に生まれてからの成長のスピードもゆっくりですから牛や馬のように群れで飼って繁殖することが難しく、象の数は減り続け、漢代には中原で象を見ることができなくなってしまいました。
南では戦象も現役
漢代、中原の人々には既に珍しもの扱いされていた象ですが、あたたかい南の地域ではまだまだ戦象も現役だったようです。司馬遷『史記』大宛列伝によれば、インドの人々は象に乗って戦っていたのだそう。『三国志』でも、曹操の息子・曹沖が南の国である呉から送られてきた象の重さのはかり方を答えるという話が紹介されていますよね。
諸葛亮が南蛮征伐に出向いた際、戦象を操る部隊と対峙した可能性も十分にあるのではないでしょうか。
※この記事は、はじめての三国志に投稿された記事を再構成したものです。
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