経済とは、「経世済民(世を経(おさ)め、民を済(すく)う)」が略された言葉です。
本来、経済という言葉は政治全般のことを指す言葉でしたが、現代社会を生きる私たちは英語でいうところの
「economy」の訳語として認識しています。
現代の経済の意味を他の漢語で捉えようとするならば「貨殖」あたりが妥当なのでしょうか?
貨殖とは、富を追求することを意味しますからなんとなく経済のイメージにピッタリですね。
ところで、富を追求するという行為は儒教が浸透していた三国時代、多くの人々に卑しいものであると思われていました。
しかし、個人レベルではそうだったのかもしれませんが、国家レベルでは魏・蜀・呉のいずれの国も富を追求することに必死でした。
経済という言葉通り、富を追求することで国民を救うことになりましたからね。
では、三国はそれぞれどのような方法で富を追求していたのでしょうか?
今回は魏・蜀・呉がそれぞれどのような経済政策を打ち立てたのかをご紹介したいと思います。
この記事の目次
董卓が起こしたハイパーインフレをどげんかせんといかん…!
まず、三国時代というカオスな時代に突入する直前、後漢末期の経済はどのような状況になっていたのでしょうか?
後漢時代の経済状況というのは宦官による専横も相まってそれほど芳しくなかったと思われますが、
大問題が発生したのはあの董卓が相国となった後。
贅の限りを尽くしていた董卓は、尽きること無い底なしの欲望を満たすべく「董卓五銖銭」と呼ばれる小さくて薄い粗悪な銅銭を
大量に発行したのです。
たくさんお金をつくれば豊かになれるなんて安直なことを考えていたのでしょうが、経済はそんなに甘くありません。
貨幣の価値が下がったならば、物価は当然上がります。
アホみたいに粗悪な貨幣を発行しまくった結果、ハイパーインフレーションが巻き起こり、政治だけではなく経済も滅茶苦茶になってしまいました。
このハイパーインフレは後漢が滅んで魏・蜀・呉の三国が立った後も続き、三国の頭を悩ませ続けることになったのでした。
魏では銅不足のために「穀帛」で対応するも…
後漢の丞相となった曹操はその当時から董卓五銖銭を廃して元の五銖銭に戻そうとする政策をとっており、曹丕が皇帝として魏を建国した後も
その政策は受け継がれていました。
ところが、銅がそれほど取れない華北で質の良い貨幣をつくるのは難しく、穀帛(穀物や絹などの布)」が貨幣の代用品として
用いられるようになりました。
しかし、粗悪な穀帛を使う不届き者が増えてきたことで五銖銭の発行を再開。
ただ、その五銖銭は銅不足のために粗悪なものだったようです…。
蜀は「直百五銖」を発行するも…
蜀でも貨幣を何とかしようと貨幣改革が行われました。
五銖銭100枚分の価値を持つ「直百五銖」という貨幣を発行し、ハイパーインフレでちょっと買い物をするのにも
たくさんの貨幣を用意しなければならない状況を打破しようという作戦に出たわけです。
蜀は魏と異なり銅がたくさん採れましたから「直百五銖」を発行することによってある程度経済を回復させることに成功。
しかし、この「直百五銖」は実際には五銖銭数枚分の価値しかなく、徐々に経済を悪化させていってしまったのでした。
呉も「大泉五百」や「大泉当千」を発行したが…
呉でも買い物するのにジャラジャラとたくさんの貨幣を持ち歩かなければならない状況を解決しようと新しい貨幣がつくられることに。
まずは五銖銭500枚分の価値を持つ「大泉五百」が発行され、翌年には五銖銭1000枚分の価値を持つ「大泉当千」が発行されました。
ところが、2種類の貨幣を発行したことがかえって人々の混乱を招き、新貨幣は回収されることになってしまいます。
結局呉は元の五銖銭で頑張っていくことを選んだのでした。
三国志ライターchopsticksの独り言
三国それぞれ知恵を絞って経済をなんとかしようと頑張っていましたが、やはり経済に明るくなかった当時の人々にとっては
難しすぎる問題だったようです。
結局は物質的に最も豊かであった魏が三国一安定した国をつくり上げていましたから、その当時に貨幣で経済をどうこうしようなんて
土台無理な話だったのかもしれません。
現代においても経済を安定させるのは至難の業ですからね…。
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