「3月から塾に行くからね」
学校の成績が芳しくないことに業を煮やした親に連れられニコニコと胡散臭い笑顔の塾長と面接し、分厚いテキストを渡されて無理矢理机に向かわされる…。子供にとってはなんとなくマイナスイメージがつきまとう塾ですが、後漢時代の中国にも塾があったそうな。そんな後漢時代の塾とはいったいどんな所だったのでしょうか?
当時の塾=学校
現代の私たちにとって塾とは学校の授業では足りない部分を補うために通うところですが、後漢時代の塾は塾というよりも今でいう学校の役割を果たしていました。
その当時は今でいう国立大学のような存在である「太学」という高等教育機関が中央に設置されていましたが、そこに通えるのは各地から選ばれたほんの一握りの秀才や家柄の良いボンボンたちだけ。ごく普通の才能とごく普通の家柄に生まれた者は地方にある地方大学さながらの「郡国学」に通うか私立大学さながらの「私塾」に通って学問に励んだのでした。ちなみに、現代の小学校にあたる「序」や中学校にあたる「痒」、高校にあたる「県校」なども整備されていたようです。
塾で学ぶのは儒教
前漢の武帝の時代に董仲舒の進言によって「太学」が設けられたのですが、その「太学」の役割は若者たちに儒教の教養を身につけさせることでした。董仲舒は儒教を国教とすることによって漢王朝の根底を揺るがしかねないその他の思想を排斥しようと考えたのでしょう。
そんなわけで中央に仕えたい者にとってはもちろん地方の役人になるためにも必須科目となった儒教。しかし、1人で経書を読んでその真意を理解するなど到底できません。そこで、役人を目指す者たちは儒教を学ぶために「郡国学」や「私塾」の門を叩いたのでした。
塾の先生は元官僚や現役官僚
「太学」や「郡国学」といった公的な教育機関では本格的に儒学を研究している学者が教鞭をとっていましたが、「私塾」では中央や地方で官僚としてつとめていた、もしくは現役でつとめている者が師として教鞭をふるっていたようです。
そんなわけで、マジのガチで儒教の勉強がしたい!という人はともかく役人となって安定した生活を送りたいと考えていた者たちは実際に役人として活躍した、もしくはしている人を師として仰ぎたいと考えて私塾の方を選んでいたみたいです。ちなみに、劉備が若い頃師として仰いでいた盧植もやはり元々は中央や地方で官僚として活躍しており、病で職を辞して故郷の幽州に帰った際に私塾を開いたのでした。
私塾に通うために手土産を用意
よし、役人になるためにも私塾に入るぞ!と志した場合まずは手土産を用意する必要がありました。
その手土産は「束脩」と呼ばれます。「束脩」とは10組の干し肉の束のことです。ちなみに現代でも茶道や華道のような師弟関係を結ぶものでは「束脩」の文化が息づいているようですね。ただ、今の時代に茶道の先生に干し肉の束を渡したらびっくりされそうですが…。
後漢時代の私塾は干し肉の束さえ用意してくれれば誰でもウェルカムだったようで、昨今の親が子どもを私立学校に通わせるためにヒーヒー言っているというような光景もありませんでした。ただ、やはりあまりにも入塾希望者が多すぎてお断りしたり、あまり良い噂を聞かない者を拒否したりといったことはあったようです。
先生が人気過ぎると直接教わることができない
私塾に入ったはいいけれど、師として選んだ人は御簾の向こうで自分の勉強に励むばかり…。そんなことは人気の私塾ではよくある光景だったようです。
そもそも、塾に入ったばかりの生徒は「門生」と呼ばれ、儒教の「儒」の字もわかってないようなのばかり。そんな門生に一から丁寧に学問を教える暇など塾長たる師にはないのです。というわけで、門生に儒教の「いろは」を叩きこんでくれるのが師の「弟子」。弟子は師から受けた教えを門生に伝授する役割を果たしつつ、自らも師から直接教えを受けていたのでした。
弟子が師の世話をやく?
今の学校といえば、授業以外でも先生が何かと世話をやいてくれるイメージがありまよね。しかし、後漢時代の師は弟子の世話などやきません。むしろ、弟子に自分の身のまわりのことをやらせていたようです。弟子も学問を教えてもらっているという恩に報いる気持ちの方が強かったようです。
三国志ライターchopsticks
現代の学生たちはお金を払っているから勉強を教わる以外にも先生に色々してもらうのは当たり前!と思っている人が少なくないようですが、その当時はお金のやりとりなんてありませんでしたし、むしろ教えてもらうということの方が千金に値するものだったのでしょう。
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