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ジョン万次郎の全貌!明治を予言した男の[素顔]

2024年8月14日


 

NHK大河ドラマ西郷どん、第5回は島津斉彬(しまづ・なりあきら)の藩主就任記念の相撲大会でした。西郷どんは大久保正助(おおくぼ・しょうすけ)の父親の赦免を得ようと飛び入り参加し、優勝候補の海老原(えびはら)を破り、ついでに挑んできた斉彬まで投げ飛ばします。そして「藩主を投げるとは無礼である」と理不尽な理由で投獄されますが、牢獄には、見慣れない異様な風体をした男が入っていました。

 

彼こそが、アメリカを見てきた最初の日本人、ジョン万次郎だったのです。日本の歴史を動かし、誰よりも早く明治を予言した男、ジョン万次郎とは一体、どんな人物だったのかを解説します。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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貧しい漁民の子供として生まれた万次郎

 

ジョン万次郎は、本名を中浜万次郎(なかはま・まんじろう)と言います。文政10年(1827年)土佐の国、中濱村で半農半漁の農民の二男に生まれました。8歳の頃に父が亡くなり、また母と兄が病弱だったので、幼い頃から、漁に出て畑を耕し家庭を助けていたそうです。しかし、大黒柱のいない家は貧しく、万次郎はろくに教育も受けられずほぼ文盲に近い状態でした。

 

 

運命の激変嵐で遭難し捕鯨船に救助される

 

天保12年(1841年)14歳の万次郎は大人にまじって鰹漁に出ました。しかし、途中で大嵐に遭遇、船は転覆し万次郎は、4名の漁師仲間と共に5日間も漂流し、奇跡的に伊豆諸島の無人島、鳥島に漂着しました。

 

しかし、そこは江戸から500キロも離れた絶海の孤島であり自力で日本に戻るのは不可能、彼らはアホウドリや魚を捕えて生で食べ、143日間の無人島生活を余儀なくされます。そんな5人の漂流民を救助したのは、当時、太平洋で操業していたアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号だったのです。「助かった帰れる」と思った5名ですが、当時の日本は外国船の寄港を認めずまた、国外に出た日本人は死刑にするという厳罰を課していました。

 

捕鯨船のホイット・フィールド船長は、やむなく5人をハワイに連れていき国際状況が変化するのを待つように言いますが、その中で、万次郎だけが捕鯨船に残り仕事を手伝いたいと申し出たのです。

 

アメリカで近代文明を学ぶ

 

ホイット・フィールド船長は万次郎の願いを聞き入れて、彼に船の名前を愛称として与え、ジョン=マンと名付けます。万次郎は勉強熱心で真面目で礼儀正しい少年であり、たちまちの間に船の仕事を覚えて立派な航海士に成長します。

 

ここで万次郎は、家庭教師や、オックスフォード学校で就学し、1844年にはバーレッド・アカデミーで英語、数学、測量、航海術、造船技術などの高等教育を受けました。万次郎は人一倍勉強熱心であり、成績はTOP、首席で卒業しています。

 

アメリカに渡った万次郎は、土佐の寂しい農村で暮らしていたのでは決して得る事の出来ない西洋の先進文明と価値観に触れます。それは、民主主義であり、男女平等であり、負の遺産である人種差別でした。

 

 

万次郎が日本に帰る事を決意した理由

 

アカデミーを卒業した万次郎は、その後も捕鯨船に乗る事を選択します。万次郎は一等航海士として人望も厚く、投票で副船長にも選ばれました。本当は、同立1位でしたが、船長の地位は年長者に譲ったようです。この辺りに、アメリカの教育を受けても謙虚な万次郎の人柄が見えます。

 

しかし、捕鯨船の乗組員として働く間にも、万次郎の心の中には、日本に帰りたいという気持ちが強く湧いてきました。病弱な母や兄は自分が居なくなってどんな貧しい暮らしをしているだろう。幼い兄弟たちは、ご飯を食べられているだろうか・・

 

親孝行で兄弟想いの万次郎は、居ても立ってもいられなくなり1850年には、捕鯨船を降りて日本へ帰る決心し、養父のホイット・フィールドへ打ち明けます。万次郎を実の息子とも思うホイット・フィールドは、悲しみますが「君の選んだ道であれば」と気分良く送り出しました。

 

 

逞しい・・帰国費用を自分で稼いだ万次郎

 

しかし、帰国するにもまとまったお金が必要です。ですが、そこまで養父のホイットフィールドには頼れません。そこで万次郎は、当時、ゴールドラッシュでにぎわっていた西海岸のサンフランシスコ州へ、東海岸から4300キロを横断して移動する事を決心します。

 

しかし、簡単に4300キロと言っても日本の本州3倍以上の距離ですよ。まだ、大陸横断鉄道も完成していない時代に、こんなに途方もない距離を移動する万次郎の生活力は凄いです。

 

万次郎は、蒸気船でサクラメント川を遡り、鉄道を使って大勢の砂金堀りでごった返すカリフォルニアに到着し金鉱堀りとして黙々と働き始めます。そして、数か月で600ドルの資金を稼ぎだしたのです。当時の600$は現在価格では200万円になりますから大金ですね。

 

 

ハワイに渡り、そこから上海行きの船に乗り沖縄へ

 

600$を元手に、ハワイのホノルルに到着した万次郎は、そこで、一緒に漂流した漁師仲間と再会します。万次郎達はホノルルから客船に乗って上海に向かう途中予め購入した小船、シーアドベンチャー号で、途中下船して一路、当時琉球王国だった沖縄に向かう事にします。

 

何故、万次郎達が琉球に向かったかと言うと、当時、日本の影響下にある島で、唯一琉球国だけが、外国人漂流民を問答無用で逮捕しない事を知っていたからです。一見して無謀に見える挑戦ですが、万次郎は周到に計算して日本上陸を計画していたのでした。万次郎は、ただの漂流者ではなく非常に賢い人なのです。

 

 

琉球から薩摩へと移動

 

1851年の2月、万次郎達を乗せたシーアドベンチャー号は、現、糸満市の大渡海岸に漂着します。当時の琉球では、イギリスやフランスなどの外国船の寄港が相次ぎ外国人の対応に慣れていたので、万次郎は捕縛される事もなく、最初は那覇に向けて護送されますが、途中で方向転換し豊見城間切、翁長村の豪農の高安(たかやす)家に軟禁されます。

 

万次郎は半年間、琉球に滞在して取り調べを受け今度は薩摩藩に護送される事になります。当時の薩摩藩主は、開明派の藩主として名高い島津斉彬でした。

 

 

斉彬は万次郎を厚遇し、実際に会って、アメリカの情勢を聞いたり藩士に万次郎の航海術や造船術の講習を受けさせたりしました。斉彬は、この時に万次郎から学んだ技術を元に和洋折衷の蒸気船、雲行丸を建造しています。さらに万次郎は、幕府の命令で鹿児島から長崎に送られます。

 

 

遭難から11年で故郷土佐に帰還

 

しかし、ここからは、打って変わって罪人扱いであり、まず長崎奉行所でキリシタンでない事を証明させる為に踏み絵を行い、その後、所持品を悉く没収してから牢獄に入れられました。以後は、出身地の土佐から迎えがくるまでの9か月を過ごし今度は、土佐藩へ移動、高知城下で土佐藩の参政吉田東洋(よしだ・とうよう)に取り調べを受けます。

 

この時に、同席していた絵師の河田小龍(かわだ・しょうりゅう)は、万次郎の話に関心を抱き、万次郎を自宅に同居させ聞き出した情報を「漂巽紀略(ひょうせんきりゃく)」に記録しました。実は万次郎は、この頃、日本語を大半忘れており、河田小龍は万次郎に日本語と読み書きを教え、万次郎は英語を教えていたそうです。

 

 

河田小龍は、万次郎の話に影響を受け、日本は鎖国を止め、船に商品を載せて、積極的に海外と交易すべきだと説き、幕末のHERO坂本龍馬(さかもとりょうま)も、河田小龍の話を聞いて海外に関心を持ったそうです。取り調べを受けてスパイ疑惑が晴れた万次郎はその西洋の知識を買われて土佐藩の士分に取り立てを受け、藩校教授館の教授に任命され、岩崎弥太郎、後藤象二郎に教えています。

 

 

スパイだと中傷されペリー艦隊との通訳出来ず

 

1853年、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが浦賀に来航します。対応に迫られた幕府は土佐藩から、万次郎を譲り受け直参旗本に取り立てます。ここで、万次郎は村の名前を取り、中浜の姓を与えられ中浜万次郎になります。貧しい百姓の子は幕末の風雲で、大変な出世をしたのです。

 

本来なら、ペリーとの交渉では、万次郎が通訳を務める筈でしたが、仕事を奪われるオランダ語の通訳達が、万次郎はアメリカのスパイと誹謗中傷したので警戒した幕府は万次郎を表立って使いませんでした。それでも、万次郎は気分を害する事なく、裏方として、日米交渉をサポートしたのだそうです。当初、故郷の家族に会いたい一心で帰ってきた万次郎も旗本に取り立てられてからは、自分の知識を日本の近代化に役立てたいと、より積極的に西洋知識を駆使するようになります。

 

 

咸臨丸で太平洋を横断、勝海舟との対立も

 

1860年、日米通商修好条約の批准書を持ってアメリカ軍艦ポーハタン号が幕府の使節を乗せて太平洋を横断します。当時、長崎に海軍伝習所を設置していた幕府は操船技術習得の成果を見るべく護衛艦として咸臨丸(かんりんまる)も派遣する事にします。勝海舟(かつかいしゅう)が艦長扱いでしたが、船には通訳としてジョン万次郎も乗り組んでいました。

 

しかし伝習所組は、遠洋航海のスキルが不足していた上に命令組織が未整備、さらに大変な嵐に見舞われた咸臨丸では、日本人に船酔いと病人が続出実際の運用は、同乗していたブルック大尉等のアメリカ人の助けがないと不可能であったと言われています。

 

勝海舟から航海術を学んだ坂本龍馬

 

また、この航海では、勝海舟は船酔いで役に立たなかったと言われますが前述のように行きの航海では、大半の日本人スタッフが船酔いであり、その上、海舟は上役の木村摂津守(せっつのかみ)喜毅(よしたけ)と対立関係は不安定になっていました。

 

この航海での勝は身分が低く、名ばかり艦長でありそれが不満でした。スタッフとのトラブルも、この不満が大きな原因であると、後年に上役だった木村喜毅は回想しています。つまり船酔い以上に、待遇への不満という癇癪が爆発していたのです。勝と上手くいかない人には、同船に乗り込んだ万札の人?福沢諭吉、そして、ジョン万次郎も入っていました。アメリカに到着してからの話ですが、江戸っ子の勝がズケズケと

 

「おィ、火箸や鉄瓶はメリケンでは何て言うんだィ?」と聞くと温厚な万次郎は珍しくムッとして、「火箸はヒバーシ!鉄瓶はテツビーンと言えば通じましょう!」と通訳を拒否した話が伝わります。

 

 

明治維新後の万次郎はどうなった?

 

明治維新後の万次郎は、開成学校、後の東京大学の英語教授になったり明治3年(1870年)に勃発した普仏戦争に視察団として向かっています。しかし、明治政府の人材が充実してくると次第に活躍の場が少なくなりました。

 

万次郎は英語の素養はあっても、百姓で和文の教育を受ける機会がなく口語で英語を教えるのは得意でも文語となると不得意でした。なので英語の文章を日本語の文章に翻訳する能力に難があり、単語レベルから西洋文明を体系的に学ぶ段階に来ていた明治政府では、その能力を活かす機会に恵まれませんでした。それに万次郎自身も、謙虚で誠実、控え目な人柄で功名心がなく多くの明治の偉人達から、政治家への転身を勧められても断り、市井の教育者の道を選んだのです。明治31年(1898年)ジョン万次郎は、72歳で死去、貧しくも家族に見守られた幸福な最期でした。

 

 

ジョン万次郎の英語は通じたの?

 

通訳として重宝されたジョン万次郎ですが、彼の英語は通用したのでしょうか?

 

後に、万次郎が編纂した英語辞典の発音法を見ると、彼が字面ではなく、耳から入った英語を正確に発音していた事が分かります。それもそのはずで、捕鯨船に救助された時の万次郎は、ほぼ文盲で、英語は耳で聞いて理解するしか手が無かったからです。

 

例えばcoolは「こーる」、waterは「わら」Sundayは「さんれぃ」New Yorkは「にゅうよぅ」等で、この通りに発音すると、現在でも、やや早口ながら、アメリカ人に通じるそうです。今風に言えば、ネイティブから聞いた活きた英語という事ですね。

 

 

ジョン万次郎に子孫はいるの?

 

万次郎は、14歳で漂流し25歳の時に11年ぶりに土佐に帰る事が出来ます。病弱だった母とは、再会する事が出来たそうです。万次郎は、1854年、27歳で幕府の剣道指南、団野源之進の娘、鉄と結婚1857年に江戸の土佐藩邸中屋敷で長男の中浜東一郎が生まれます。東一郎は医者・医学者で、東京大学の医学部を卒業しドイツに留学、主要な研究には、八丈小島の風土病、マレー糸状虫症の研究があります。

 

また、中浜東一郎の長女は中濱絲子(いとこ)と言い女流歌人でした。森鴎外(もりおうがい)の紹介で与謝野鉄幹(よさのてっかん)の門人となり、与謝野晶子や山川登美子と共に明星の3大女流歌人と謳われ「白藤の君」と呼ばれました。

 

 

ジョン万次郎の名言

 

ジョン万次郎は以下のような名言を残しています。

 

「人間は全て能力で用いられるべきだ」

 

彼は身分制でがんじがらめの江戸時代に漁師の子として産まれて、

アメリカに渡ったので、能力主義の重要さが肌身に沁みていました。

 

また、アメリカと日本、二つの国に滞在した経験から、

以下のような言葉もあります。

 

「私は、日本とアメリカの良さを両方知っている」

 

日本人が、まだ誰も太平洋の向こうの大国アメリカを知らなかった時代万次郎はまるでタイムスリップした未来人のような目で、日本の行く末、アメリカとの関係について考えていました。

 

 

西郷どんとジョン万次郎は会った事あるの?

 

西郷隆盛とジョン万次郎は会った事があるのでしょうか?

 

史実では、万次郎は47日間だけ薩摩に留まっているので、可能性がゼロとは言えません。しかし、この時代には、まだ西郷どんは、島津斉彬に見いだされていないので、親しく言葉をかわす事はなかったと思います。

 

ジョン万次郎の墓はどこ?

 

ジョン万次郎の墓は、東京都豊島区南池袋4丁目の雑司ヶ谷霊園1-15-19にあります。墓参の時に注意して欲しいのは、墓石にはジョン万次郎ではなく正字で中濱萬次郎と刻まれている事です。(当たり前・・)

 

墓石は戦時中の空襲で破損している部分があるそうです。アメリカと日本を愛した万次郎、この両国が激しく戦う事になった事を墓中の万次郎は、どのような想いで見ていたのでしょう。

 

※墓参りはマナーを守って行いましょう。

 

 

幕末ライターkawausoの解説

 

ジョン万次郎について、解説してみました。彼は当時の日本人で誰よりも早く、開国の必要性を感じていて、自身の遭難自体を天命のようにとらえて、習得した西洋文明と技術を惜しみなく故郷日本に伝えようとした教育者でした。

 

幕末の偉人は、ほとんど毀誉褒貶の多い人ばかりですが、万次郎を悪く言う人は一人もいません。幕末に生きて、西洋文明に関心を持った人物で万次郎を知らない人はなく、その優れた文明の知識で、人々に影響を与え日本を近代化させた点で万次郎は紛れもない偉人なのです。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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