2018年のNHK大河ドラマ西郷どん、第3回はお由羅(ゆら)騒動で島津斉彬(しまづなりあきら)を、藩主に据えようとする斉彬派が、島津斉興(なりおき)の逆襲で一斉に弾圧されました。今回は薩摩藩を二分し、その後にも、西郷どんと島津久光(ひさみつ)の対立によって一定の遺恨を残したお由羅騒動について、詳しく分かりやすく解説します。
この記事の目次
お由羅騒動とは何?
お由羅騒動とは簡単に言うと、藩主、島津斉興の後を
・正室弥(いや)姫の子である斉彬が継ぐか?
・側室のお由羅の方との子、久光に継がせるか?
という襲封(しゅうふう:藩を継ぐ事)問題を巡り、薩摩藩が二分して争い、切腹や謹慎、遠島を出した大事件です。これにより、斉彬派は根こそぎ弾圧され、斉彬襲封の可能性は、絶望的と思われましたが、脱藩者が出て問題が幕府にまで到達しお家騒動として、大問題となり、斉興が責任を取り隠居し大逆転で、島津斉彬が藩主となった転換点でもあります。
お由羅騒動が起こった原因とは?
お由羅騒動の原因は、藩主の斉興が正統な後継ぎである斉彬を嫌い寵愛している側室のお由羅との間に生まれた久光を藩主の地位に就けようと画策した事に大きな原因があります。
しかし、長子である斉彬は、既に将軍家へのお目見えも終了し、将軍、徳川家斉(とくがわいえなり)の弟で御三卿の一橋家当主一橋斉敦(ひとつばし・なりあつ)の娘、英(ふさ)姫を正室としていた事もあり、廃嫡が不可能でした。そこで、斉興は、後継ぎが成人すると隠居して藩主の座を退くという薩摩藩の従来の慣例を破り、斉彬が40歳になっても、隠居せず、斉彬が病死するのを待ち、直接に久光に襲封しようとしたのです。
ですが、そんな私的な理由で、後継ぎを廃されては斉彬としては、たまったものではないので、自力で藩主の座を獲ろうと、自身に味方する薩摩藩士と協働して動き出します。それに対して、斉興と久光を推す守旧派が対立したのが、お由羅騒動のそもそもの原因という事になります。
島津斉彬派が粛清される理由
薩摩藩の襲封問題は、当然の事ながら、幾つかの問題を内包していました。当時の薩摩藩は、8代目の藩主である島津重豪(しげひで)が造った500万両の多額の借金を返済した家老の、調所広郷(ずしょひろさと)を中心に、島津久宝(ひさたか)島津久徳(ひさのり)といった斉興側近の家老で固められていました。
彼らは、重豪時代の反省から、大きな財政支出を恐れていましたが、斉彬は藩の改革を志向しており、調所広郷等は、斉彬襲封を非常に嫌悪していたのです。一方で、江戸家老・島津壱岐(いき)や二階堂主計(かずえ)、それに不遇な薩摩藩の下級武士は門閥で固定された藩の政治に不満を持ち改革を唱え、英邁と誉れ高い、斉彬を担ぐようになります。
このように、斉彬と久光の後継者対立は同時に、既得権益を握る守旧派に改革を唱える若手の改革派が挑むという構図になりました。単純に、誰が藩主になるかという問題に加え、既得権益を守ろうという人とそれを奪おうという一派の対立になったのです。
さらに、ここに、1849年、斉彬の4男、篤之助(とくのすけ)が2歳で病死するという事件が起きると、久光とお由羅一派の仕業だとする斉彬派が、お由羅と久光を殺そうとクーデター計画を練るという事件になりました。これを知った守旧派が、恐怖心から斉彬派を大弾圧したのが、お由羅騒動です。また斉興から見れば、後継ぎを誰にするかは、島津家の問題であり、「家臣の分際で、家の事に口を挟むとは何事か!」と激怒する事件であり、それが切腹13名、謹慎・遠島50名という犠牲者を生んだのです。
お由羅の方はどんな人だったの?写真は残ってるの?
お由羅の方は、寛政7年、1795年に江戸で生まれました。一応、武士の岡田利武の養女を名乗っていますが、実は町人の出身で江戸の大工、工藤左衛門の娘とも、江戸・三田の八百屋の娘、その他に舟宿の娘など多数の説が存在します。
彼女は美人であったようで、江戸の薩摩藩邸で奉公していた時に、斉興に見染められて側室となりました。お由羅の方については、写真などは残っていないようです。江戸には当時、正室の弥姫がいたので、斉興はそれを気にしてお由羅を薩摩藩に連れて行き、その後も、自分が江戸に参勤するたびに、お由羅の方も連れていきました。
これは、当時、異例の事であり、斉興のお由羅への寵愛の深さを物語っています。1817年、お由羅の方は、男子を産みます、それが久光です。さらに1824年に正室の弥姫が死去すると、お由羅は長子の斉彬以外で、ただ一人、男子を産んだ側室として御国御前(おくにごぜん)と敬称され、正室と同等の扱いを受ける事になります。
お由羅騒動の事があり、世間的には、成り上がりで性格がキツい権力亡者のような扱いを受けているお由羅の方ですが、そもそも、久光を後継者にと持ち掛けたのは、斉興であり、お由羅の方は、「息子が藩主になれるなら」と、母として当然の気持ちで、これを後押ししたに過ぎないように見えます。
それほど、冷酷な人でもなく、久光の擁立に味方した家老の調所広郷が薩摩藩による密貿易の情報を幕府に流した斉彬の計略で幕府に尋問され、責任を背負い自殺すると、これを哀れに思い、調所の遺児を側用人として密かに取り立て支援したりしています。調所の子孫は、斉彬派から諸悪の根源のように嫌われ随分迫害されたのですが、それに比べるといかに味方とはいえ、温情のある措置です。
しかし、当時の日本で幕府の学問とされた朱子学では、血筋の正当性が何よりも重要視されていました。そうなると、町人の娘の子であり、庶子でもある久光では、正室の子で英邁の誉れ高い、斉彬に比べて旗色が悪くなります。この事から、お由羅の方は、斉興を色気でたぶらかし、自分の息子を藩主にしようとゴリ押しする悪女という悪い風聞が流されたのです。
斉彬の子供たちは、本当にお由羅の方に毒殺されたの?
もっとも、実際にお由羅の一派が斉彬の子供達に呪いをかけたり毒を盛って殺したという話は当時からあり、それに憤慨して斉彬派の藩士が、お由羅騒動を起こしたという経緯もあります。西郷隆盛(さいごうたかもり)も、それを信じており、斉彬が藩主になると、お由羅を成敗するように進言している程でした。
確かに、斉彬の子は、男子6名が1人も成人していませんが、お由羅の方も、3人子供を産んで、成人したのは久光だけであり、幕末の医療レベルは大名家でも、その程度でしかないとも言えます。なので、本当にお由羅の方が斉彬の息子達を呪詛したり、毒を盛って殺したとは、断定できないのです。
篤姫とお由羅の関係性
2008年のNHK大河ドラマになった篤姫(あつひめ)こと天璋院(てんしょういん)とお由羅の関係ですが、調べてみたところ、直接の関係はありませんでした。篤姫は、薩摩藩主島津家の一門で、今和泉(いまいずみ)領主の島津忠剛(ただたけ)の娘として生まれています。
この島津忠剛という人は、薩摩藩主、島津斉宣(なりのぶ)の7男にあたります。島津斉興は、斉宣の長男なので忠剛と斉興は兄弟という事になります。つまり、篤姫は、斉興やお由羅の方から見て姪にあたり、斉興の子である島津斉彬とは、いとこ同士の関係になるわけです。
密貿易を幕府に訴えた理由
島津斉彬は、側室であるお由羅の方との間の子である久光を後継者にしようとし、なかなか隠居せず、斉彬は後継ぎでありながら40歳を過ぎても薩摩藩を継ぐ事が出来ませんでした。斉彬には藩主になって、風雲急を告げる日本を改革したいという野望があり、このまま病没するつもりはありません。
しかし、実権のない斉彬には、力で父を追い落とす術はないので薩摩藩が、幕府に内緒で琉球を介して密貿易を行っている公然の秘密を幕府に漏らす事によって、密貿易問題を藩主の斉興に押し付けて、隠居に追い込もうと考えました。
外から見ると、そんな事をして、薩摩藩が取り潰されたら、どうするのだと思いますが、当時の幕府の老中の阿部正弘(あべまさひろ)は斉彬とは若い頃からの親友であり、根回しは済んでいました。つまり、最初から斉興を隠居させる目的での情報漏洩なのです。
ところが、実際に密貿易を監督していた家老の調所広郷は、思い切った行動に出ます。老中、阿部正弘に江戸で密貿易について尋問されると、全ての責任は自分にあるとして自殺してしまったのです。これにより、責任を斉興に問い、藩の存続を餌に隠居させようと考えた斉彬と阿部正弘の計画は無駄になってしまい、同時に、寵臣を殺された斉興は、ますます斉彬を憎悪します。斉彬らしからぬ、この情報漏洩は派閥抗争を激化させただけでした。
斉彬、斉興の隠居と後継ぎ問題
お由羅騒動を幕府に問題とされた斉興は、とうとう隠居して、1851年に斉彬がようやく藩主の座につきます、43歳でした。ですが、藩主になった斉彬は、さらなるお家騒動を恐れて、お由羅と久光を推す一派を処罰しませんでした。
斉彬が藩主になってからも五男の虎寿(とらじゅ)丸が、5歳で死去し、これも、お由羅一派の毒殺か呪詛だと憤る藩の下級藩士達が、騒動を起こしそうになりますが、斉彬は、これを叱りつけて止めます。
その後、斉彬にとっては、最後にして唯一の男子の哲丸(てつまる)が生まれると斉彬は、ライバルだった久光の子の忠義(ただよし)を仮養子として、次期藩主に指名し、哲丸が成人したら、藩主を譲るようにと遺言を残します。さらに斉彬は、忠義に、娘の暐(てる)姫を娶らせ、対立した血統の混合を図るなど骨肉の争いだったお由羅騒動を後悔しているかのような対応が続きます。同時に、これは年少の忠義の後見として久光が実権を握る可能性を残しておく絶妙の縁組でもありました。
1858年、次々と男子を失った斉彬も鹿児島で練兵中に急死します。父である斉興が毒殺したとも言われますが、藩主の斉彬の死後、一度隠居した斉興は仮の藩主となり、ここに一度は敗れた斉興から孫の忠義への藩主の襲封が可能になりました。斉興も、翌年、1859年10月7日には68歳で病死、唯一の斉彬の男子だった哲丸も、成人する事なく亡くなりここに、久光と忠義の父子による薩摩藩の支配が確立し、明治維新を迎える事になります。
幕末ライターkawausoの独り言
お由羅騒動について、解説してみました。やはり、どこの藩でもお家騒動になると複雑ですね。実際には、誰が藩を継ぐかというシンプルな話が、藩の中の派閥問題や、改革派と保守派の問題に連鎖していき、思った以上に騒動が大きくなり禍根を残すのです。
唯一の救いは、斉彬がお由羅騒動に学び、久光に歩み寄り、藩の融和を図って死んだので、さらなる大騒動には発展しなかった事でしょうか・・お由羅は、この事件のせいで随分悪女と言われますが、その後は、政治に口を出す事もなく、1866年にひっそりと71歳で、この世を去りました。実子の久光は藩主になれませんでしたが、孫の忠義が、藩主になったのですから、まずまずの人生だったでしょう。
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