2018年のNHK大河ドラマ、西郷どん、第一回のタイトルはやっせんぼでした。ここでは、幼少期の西郷どんが出てきましたが、では、やっせんぼとは、どういう意味なのでしょうか?そして、やっせんぼの効果的な使い方とはどういうものでしょう。今回のはじ三では、やっせんぼについて解説しますよ。
西郷どん第1回タイトルの「やっせんぼ」の意味と使い方は?
では、用語辞典で鹿児島弁のやっせんぼを調べてみましょう。すると、やっせん=役をしない、ぼ=坊主という意味がありました。つまり、やっせんぼには、役立たず、臆病者、弱虫、決断力なしというネガティブな意味が含まれていたのです。
使い方としては、木に登れないとか、河に飛び込めないとか、怖がってしり込みするような臆病な子供に向かって全員で「やっせんぼ」と囃したそうです。言葉だけを見ると、やせっぽちに似ているのでガリガリに痩せているのかな?等と思っていましたが、全然違うんですね。
本当に西郷隆盛はやっせんぼだったのか?
では、西郷どんは幼少の頃に、本当にやっせんぼだったのでしょうか?
史実では、それは間違いである事が分かります。西郷どんは、子供の頃は体格が大きいだけで口数も少ないので目立たず、大きな目が特徴であだ名が「大目玉」だったそうです。
しかし、成長すると存在感が増し自然に他の子ども達のリーダー格になります。それに、いざとなると勇気もあり、13歳の頃、妙円寺詣で、別の方限(ほうぎり:地区)の少年に逆恨みされ、刀で斬りかかられたの体術でいなして、川に放り投げてしまったという逸話もあります。
ただ、西郷どんは、この時に右肘を斬られて傷を負い、そのせいで腕が曲がらなくなり、剣で身を立てる道を諦めました。それからは、西郷どんは、人と言い争う事もしなくなり、益々、その人格が磨かれていったという事です。そういう事もありましたが、西郷どんは幼少時から有能であり、決してやっせんぼうではなかったのです。
西郷隆盛がいなかったら日本はどうなった?
西郷どんは、その見た目の大きさや威圧感と違い、正義感が強い人であり、同時に弱い者に優しい人でした。そんな西郷どんは、人が大勢死ぬ戦争を憎んでいましたし、やむを得ない時以外には、武力を行使する事も嫌がっていました。
例えば朝廷に弓を引いて賊軍になった長州藩が禁門の変で幕府と薩摩と会津の連合軍に敗れて京都から追い出され、さらに国元でも外国艦隊の砲撃を受けて壊滅寸前になった時でも、西郷どんは、責任者を切腹させて、攘夷派の公卿五人を長州藩から移せば、それで良いとなるように、幕府に働きかけていますし、
有名な江戸無血開城の時には、幕府側の代表である友人の勝海舟の言葉を信じ将軍、徳川慶喜の助命と、徳川方の自主的な武装解除を受け入れて江戸が火の海になるのを阻止しています。この時は、薩摩や長州は、徳川慶喜の首を取らないと戦争は終わらないと息巻いていて、それを説得するのは大げさではなく殺される恐れさえある危険な事でしたが、西郷さんは一人で引き受け、ついに説得しました。
もし、官軍の総大将が西郷どんじゃなかったら、、薩摩や長州は、どこまでも慶喜の首を要求し、それを拒む幕府軍と江戸で衝突が起こり、万単位で人が死んだかも知れません。そうならなかったのは、やはり、江戸の市民を戦争に巻き込んではいけないという西郷どんの優しさと戦争嫌いではないでしょうか?
西郷どん解説者 kawausoの独り言
以上、西郷どんは、やっせんぼだったのか?について解説しました。西郷どんは、非常に同情しやすい性格であり、自分も貧しいのに貧しい農民に自分の給料を与えて生活に困ったり、明治政府に入り、大元帥という軍人の頂点になってからも、坂道で難儀をしている老人の荷車をいかめしい軍服を着たままで押してあげたりしています。皆、びっくりして、ひれ伏しますが、西郷どんは何気ない感じで少しも気にする様子はありませんでした。
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