昨晩は洗わなければならない食器がなぜだかいつもの3倍くらいありました。なかなか洗い終わりません。眠いよ~とぶうたれながらやっていたら、「寝ればいいじゃないか」と言われました。でも洗いものが残っていると翌日朝食を作る前に片付けないといけないから大変です。誰も私の課題と努力を理解してくれない……と思った時に、ふと脳裏に浮かんだのが屈原の「離騒」の一節です。
「已んぬるかな 国に人無く 我を知る莫し」……目下の孤独と絶望に寄り添うような詩句です。これ、ストレス解消に使えるんじゃないでしょうか。有名だけど難しげで意外に読む機会のない「離騒」を、ちょびっとだけ味わってみましょう。
屈原と「離騒」
屈原(紀元前340年頃~ 紀元前278年頃)は中国の戦国時代の楚の国の公族です。屈原は楚王が秦の国からやってきた縦横家(雄弁家)の張儀にたぶらかされていると心配し、いろいろ意見していましたが、政争に敗れて左遷され、憂悶のうちに汨羅江に身を投げて自殺しました。屈原は生前いくつもの文学作品を詠んでおり、その浪漫的で感情ほとばしる作品が、古代中国の南方の文学作品集の『楚辞』に収録されています。そこに収録されている作品の一つが「離騒」です。
国を思う気持ちと絶望感を詠んだ憂国のうた
「離騒」は屈原が自分のことを詠んだものであると考えられています。堂々たる公族としてしっかり仕事をしていた自分は、王がくだらない者たちの言うことに耳を貸して政治をあやまることを心配して王に意見をしていたが、聞き入れられなかった。
自分が評価されないことはかまわないが、国のゆくすえがただただ心配なのである。というような内容が、せつせつとつづられ、最後にはこの世に絶望するような終わり方になっています。実際、ご本人も入水自殺されていますね……。この「離騒」が屈原の代表作で、屈原は「憂国詩人」と呼ばれています。
とても自意識過剰な書き出し
「離騒」を少しだけ読んでみましょう。書き出しはこういうふうです↓
【原文】
帝高陽之苗裔兮朕皇考曰伯庸
摂提貞于孟陬兮惟庚寅吾以降
皇覧揆余初度兮肇錫余以嘉名
名余曰正則兮字余曰霊均
紛吾既有此内美兮又重之以脩能
【書き下し文】
帝高陽の苗裔
朕が皇考を伯庸と曰う
摂提孟陬に貞しく
惟れ庚寅に吾以て降れり
皇覧て余を初度に揆り
肇めて余に錫うに嘉名を以てす
余を名づけて正則と曰い
余を字して霊均と曰う
紛として吾既に此の内美有り
又之に重ぬるに脩能を以てす
【ざっくり訳文】
自分は高陽帝の末裔で、生まれた日付がすばらしい日であり、
父はすばらしい名前をつけてくれた。名を正則、あざなを霊均という。
すぐれた資質とすぐれた才能を持っている。
いきなり自慢話から始まってますね……。先祖までさかのぼって、血筋がいいことをアピール。オギャアと生まれたその瞬間からの自慢話。自分で自分のことを「すぐれた資質とすぐれた才能」とか言っちゃってます。ううむ……のっけからキャラクター設定の説明をえんえんと始めるのはライトノベルの駄目パターンだと聞いたことがあるのですが。主人公のすごさも、地の文で説明するんじゃなくて、友達の発言とかから「あいつはすごいやつだ」って言わせないと説得力ないんじゃなかったでしょうかね。大丈夫なのか、この作品……?
俺は正しい!悪いことはみんな人のせい!
冒頭の自慢話が終わると、王様が振る舞いをあらためてくれない、という愚痴が始まります↓
【原文】
何桀紂之猖披兮夫唯捷径以窘歩
惟夫党人之偸楽兮路幽昧以険隘
豈余身之憚殃兮恐皇輿之敗績
【書き下し文】
何ぞ桀紂の猖披なる
夫れ唯捷径を以て窘歩せり
惟夫れ党人の偸楽する
路幽昧にして以て険隘なり
豈余が身之れ殃を憚らん
皇輿の敗績を恐るるなり
【ざっくり訳文】
王様は昔の暴君の桀王や紂王のように、みだりな邪道に陥ってしまっている。
その下ではまともに仕事をしないずるい連中が徒党を組んでいい目をみている。
国家は危なっかしいことになってしまっている。
自分はみんなに同調せずにひどい目に遭ってもかまわない。
国家が崩壊することを恐れるのだ。
王様や政敵の悪口を言って、自分だけいい子ちゃんになってますね。
「離騒」の味わい
「離騒」は、徹頭徹尾、「俺が俺が」という調子です。自己中な内容を、美しい言葉でせつせつと歌い上げております。現代人の感覚からすると度を越した自己中なのですが、書き方があまりにも痛切なので、読んでいるうちに読み手がついシンクロしてしまうような雰囲気があります。催眠術かもしれませんね。同じような文言がくりかえし現われるので。サブリミナル効果。
屈原とシンクロしながら自己中表現を読むと、しんみりと自己愛にひたれてなかなかいい感じです。「自分は素晴らしい人なのに誰も理解してくれないんだ!世の中みんな人でなしばっかりだ!」なんて、客観的な思考方法を叩き込まれて育った現代人はなかなか自分の言葉では考えられませんが、「離騒」を読めば自分の代わりに屈原がぜんぶ言ってくれます。これは正直、とてもいい気持ちです。日常世界では許されない究極の自分甘やかし体験です。誰にも話せないモヤモヤが、スーッと消えて行きます。世界中の誰も理解してくれなくても、屈原だけは味方です。
三国志ライター よかミカンの独り言
私のごく個人的な感想になってしまいましたが、「離騒」にはこんな楽しみ方もあるというお味のご紹介としては一興だったのではないでしょうか。孤独を感じた時に、しみじみと浸りながら読んでみると、きっと癒やされると思います!
原文および書き下し文引用元:
『中国の名詩2 滄浪のうた 屈原』目加田誠(めかだまこと)訳 平凡社1983年
※漢字は本稿では通用漢字に書き換えました。
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