諸葛亮孔明が隆中で暮らしている時よく口にして歌っていた「梁父吟」
この歌を作ったのが春秋戦国時代の
名宰相と言われる晏嬰(あんえい)です。
彼は斉の国の宰相として活躍した人物で、
「史記」を書いた司馬遷(しばせん)や孔子も彼を非常に高く評価しています。
司馬遷や孔子も高く評価した晏嬰とは一体どのような人物であったのでしょうか
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小さいけど勇気に満ち溢れる

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晏嬰の身長はすごく小さく「6尺であった」と言われております
6尺というと当時の一尺が大体22.5㎝であったので、
これを単純に6倍すると135㎝ぐらいですね。
今の小学6年生の小さい事同じくらいの身長です。
しかし彼は常に斉の国の事を考え、
上司や目上の人間、君主に対してでも間違った事があれば、
はっきりと諫言します。
晏嬰のこの態度が斉の国民からすごい人気を得ます。
斉の霊公に仕える

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晏嬰は斉の霊公に仕えます。
霊公は民衆が祭りの時、町の女性たちが全員男装していることを辞めさせたいと
思い、男装禁止令を発令します。
しかし町の女性たちは男装を辞める事はありませんでした。
霊公は晏嬰に「どうすれば町の女性は男装を辞めるのであろう」と相談します。
すると晏嬰は「後宮の男装を辞めさせれば、町の女性はすべて男装をやめましょう」と告げます。
霊公はすぐに晏嬰の言葉に従い、後宮の男装を辞めると
町の女性達も男装を止めます。
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田舎に帰る

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霊公が亡くなると子の荘公の時代になります。
荘公の時代、北の超大国である晋で権力闘争が発生。
この権力闘争に負けた晋の貴族欒盈(らんえい)が亡命してきます。
荘公は欒盈を助けようとしますが、晏嬰は「止めた方がよろしいでしょう」と
諌言します。
しかし荘公は晏嬰の諫言を無視して欒盈に協力します。
晏嬰は自らの諫言が入れられなかった事と荘公から疎まれていることを感じ取り、
田舎に帰ります。
君主に哭礼をあげる

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荘公はその後斉の宰相崔杼(さいじょ)に殺害されてしまいます。
晏嬰は荘公が崔杼に殺されたと聞くと彼の家に駆けこみますが、
難しい問題が待ち受けておりました。
それは晏嬰がもし崔杼の家に駆けこんで荘公を悲しめば崔杼に殺されて
しまいます。
また荘公を悲しまず崔杼におもねれば後世に悪名が残ります。
この問題に晏嬰は名言を残します。
「君主が国家のために亡くなったのであれば私も共に死のう。
君主が国家のために亡命を行うのであれば、私もお供しよう
君主が私事で亡くなったのであれば、私がお供する必要はない。」と
崔杼の家の中に入ってから大声で叫んだ後、普通の哭礼(こくれい=大声で泣く事)
を行い、家に帰ります。
この時崔杼の配下は晏嬰を殺すよう進言しますが、崔杼は彼の名声の高さを
考えると殺すのは得策でないと考え、殺害を中止させます。
斉の新たな君主景公が擁立される

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崔杼は協力者と共に斉の新たな君主として景公を擁立します。
この時反対派の意見を封殺する為、「われらに従わない者は殺す」と
脅しをかけます。
晏嬰は脅されても屈せず、「君主に忠誠を尽くし、国家のためになる人へ味方する」と
崔杼へ言い返し、その場を去ります。
その後崔杼は斉の貴族達に殺されますが、斉の貴族たちは景公を手に入れ、
自らが行った行動に正当性を付けようとします。
しかし晏嬰は景公をかばい、「あなた達と崔杼(さいじょ)は私怨で戦った事であり、
斉の君主には関係ない。」と斉の貴族達へ言い放ち、景公を守り通します。
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