契丹は4世紀から14世紀にかけて満州から中央アジアの地域に存在した半農半牧のモンゴル系の民族です。10~12世紀世紀前半に遼(916年~1125年)という王朝を建国しました。一時期は北宋(960年~1127年)を圧倒するほどの驚異的な存在でした。しかし、北宋の第8代皇帝徽宗の宣和7年(1125年)に北宋と金(1115年~1234年)の連合軍により滅ぼされました。その後契丹は、金やモンゴルにより取り込まれていったようです。ところで、契丹は日本との関係はあったのでしょうか。そこで今回、契丹と日本の関係について解説致します。
契丹と日本の関係は残酷な結論
結論から言うと、10世紀当時の契丹と日本に直接的な関係は〝無し〟です。
「いや、そんなはずは無い!」
「晃、お前はサボっている。ちゃんと調べて書け!」
と思われる読者の皆様でしょう。
「だが断る」
・・・・・・すみません。
『ジョ〇ョの奇妙な冒険』のセリフが言いたかっただけです。
ちゃんと真面目に書きます。
〝無し〟というのは誤りです。〝ほぼ無し〟が正しいです。
日本の寛治8年(1094年)に藤原伊房が遼と私貿易をした記録は残っています。当時、私貿易は国禁でした。伊房は私貿易の罪により免職となりました。また、有名な平将門は、天下を治める人物として遼の初代皇帝太祖を例に出していました。記録からはこの程度しか残っていません。なぜ日本と契丹に関しての記録は少ないのでしょうか。理由として推測されることは、当時の日本は平安時代であり日本独自の文化が出来上がっていたので、外国文化を手に入れる必要が無かったからだと思います。
解読不能の契丹文字
遼の初代皇帝太祖は建国当初に〝契丹文字〟という自国の文字を制定しました。これは強い民族意識に基づくものです。契丹文字は100年ほど前までは、わずか数文字しか知られていませんでした。その後、西洋の学者の間で研究が行われましたが、それでも解読が進みませんでした。さらに、時が流れて中華民国21年(1932年)のことでした。奉天の張学良の屋敷に遼の皇帝の墓誌銘数十個の存在が確認されました。その墓誌銘の拓本をはじめて日本に紹介したのが、京都大学教授の田村実造氏でした。甲骨文研究で有名な学者の羅振玉の息子の羅福成の協力により、この拓本は出版されました。
書籍名は『遼陵石刻集録』です。この出版は大成功して、日本・中国・西洋の学者の好奇心を刺激することになりました。
契丹文字への挑戦は続く
『遼陵石刻集録』の出版後、契丹文字に対しての関心が世界中で高まりました。前述の田村氏や満州医科大学教授の黒田源次氏は、現地に到着すると陵墓の構造や壁画についての調査を行いました。こうして諸学者の研究により、複雑な契丹文字のことが少しずつ分かってきました。
(1)契丹文字は複雑な形であるが、実は200個あまりの原字をいくつかずつ組み合わせたもの。
(2)原字は発音を現すものであるが、なかには象形文字もあること。
(3)漢字との比較から所有格を示す文字があること。
さらに順天堂大学教授の村山七郎氏は、契丹文字を従来考えられたいたウイグル文字ではなく、突厥文字に基づくものとして考えました。さらに、契丹後はモンゴル語系に属するものと試みました。これは非常にユニークな研究として注目されました。さらに、田村氏は京都大学教授の小林行雄氏と共同で、契丹語の文法について研究をしました。しかし、これだけの研究があるにも関わらず、契丹語は今でも未解明の領域です。今後の研究成果に期待します。
宋代史ライター 晃の独り言
以上が契丹と日本についての関係です。契丹と日本の関係は、後世になる方が濃厚になっています。今後の研究により、さらに密度が増すかもしれません。
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