皆さんは太史慈にどのようなイメージを持っていますか。約束事守る人でしょうか。それとも孫策との一騎打ちを繰り広げたイメージから武勇に強いイメージでしょうか。
これらのイメージは全て当てはまると思いますが、三国志の大方の武将がもっている黒歴史を太史慈も持っておりました。太史慈の黒歴史は劉繇に仕えてしまった事です。太史慈は劉繇に仕えますが、彼に忠誠心の欠片も持っていなかったのです。
太史慈が劉繇への忠義ゼロな理由その1「正史三国志の記載」
太史慈は劉繇に忠義を尽くすつもりがありませんでした。その理由の一つとして正史三国志・太史慈伝の記載があります。
正史三国志・太史慈伝によれば、太史慈は劉繇と同じ出身でしたが、彼と面会するチャンスを得ることなく過ごしていたそうです。その後太史慈は長江を渡って江東へと向かうことになるのですが、この時揚州刺史であった劉繇とはじめて会見します。その後太史慈は劉繇に仕えることになりますが、太史慈はたまたま袁術の元から離れて独立勢力として江東へ侵入してきた孫策の軍勢が劉繇の領土へ侵入してきたため、戦うことになります。
正史三国志では太史慈は劉繇に仕えた事が記載されていますが、孫策軍がやってこなければ太史慈が劉繇の元を去るつもりであった事をほのめかすような記載があります。そのため太史慈は劉繇に忠義を尽くすつもりが無かったと思われます。しかしほかにも太史慈が劉繇に忠義を尽くすつもりが無かった理由があります。
太史慈が劉繇に忠義ゼロな理由その2「不当な評価」
太史慈が劉繇に忠義ゼロな理由その2としては「不当な評価」が当てはまるのではないのでしょうか。
太史慈は青州ではそれなり有名人で、孔融も太史慈の名声を聞いて彼の母親に色々な贈り物をしておりました。劉繇は太史慈と同じ出身の武将であるにも関わらず、太史慈を将軍の位にしたり、戦場で兵士を率いて駆け引きをするような役職を与えたりしませんでした。
また劉繇の側近が「太史慈を大将軍に任命して兵士を率いさせれば孫策軍に負けないのではないのでしょうか。」と劉繇へ進言をしたことがあります。しかし劉繇はこの側近の言葉を受け入れることをしませんでした。そのため太史慈は青州で有名人だったにも関わらず、劉繇から正当に評価されなかった事に対して不満を感じて、彼に対して忠義を持って仕えることをやめたと考えられないでしょうか。
太史慈が劉繇に忠義ゼロな理由その3「独立」
太史慈が劉繇に忠義ゼロな理由その3としては「独立」があります。太史慈は劉繇が孫策軍に敗北して豫章へ逃亡したとき、劉繇に従わないで途中で姿をくらましてしまいます。そして太史慈は劉繇から独立して丹陽の太守と称して、孫策軍に抵抗。
もし太史慈が劉繇へ忠誠心を持っているならば、一緒に豫章へ逃亡して孫策軍に対抗していたはずです。しかし太史慈は劉繇に従わず独立してしまったことからも彼が劉繇に忠義をまったくもっていないゼロ状態だったと言えるのではないのでしょうか。
三国志ライター黒田レンの独り言
太史慈は劉繇に仕えていたときはほとんど忠誠心をもって仕えていませんでした。しかし太史慈は孫策に仕えると劉繇時代とは打って変わって、孫策へ忠誠心を持って仕える事になります。劉繇よりも孫策の方が魅力的であり、イケメンで、太史慈のことを正当に評価してくれたかもしれません。ですけど余りにも太史慈が劉繇に対して忠義を持って仕えていなかったので、もうちょっと忠誠心を持って仕えて上げればよかったなと思うのはレンだけでしょうか。
■参考 正史三国志太史慈伝など
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