私たちは中学生の頃、日本の歴史を学ぶのに並行して他の国の歴史も学んでいましたよね。
他の国と比較することによって日本の歴史の特徴が浮かび上がるという点で学びに効果的だということでこのような学習方法がとられているのですが、多くの人は「他の国なんてどうでもいいわ」と思っていたかもしれません。
しかし、今現在『三国志』にハマっている皆さんにとっては「あのときの知識が役だっているな」と思うこともあるのではないでしょうか?日本の歴史を学ぶ際にもっとも引き合いに出されるのはやっぱり中国の歴史です。でも、大人になった今、日本と中国の歴史だけに限らず、他の国の歴史にも興味がわいてきたという人も多いはず。
そこで今回は、『三国志』に描かれている後漢から三国時代にかけては世界の歴史はどのように動いていたのかを簡単にご紹介したいと思います。
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この記事の目次
日本では卑弥呼の邪馬台国が栄えていた
大昔、日本と中国の文明には大きな差が開いていたということは歴史を学んだ多くの人が既に知っていることでしょう。しかし、三国時代にもなると、中国の文明にちょっぴり追いついた日本の姿が垣間見えます。
『三国志』魏書によれば、日本では卑弥呼という女王が君臨する邪馬台国を中心に小さな国が乱立していたそうな。
卑弥呼は占いによって国の政治を執り行っていたということですから、かつての殷の政治を彷彿とさせますね。
ヨーロッパのローマ帝国は五皇帝が乱立する混乱の時代に
一方、遠くヨーロッパの地ではかの有名なローマ帝国が地中海を中心に君臨していました。98年に即位した至高の皇帝・トラヤヌス帝から続いた五賢帝時代はローマの華々しい時代でしたが、180年にマルクス・アウレリウス・アントニヌス帝が亡くなってからは雲行きが怪しくなっていきます。
その後、悪政をふるったコンモドゥスが192年に暗殺されると193年には5人もの皇帝が乱立する大パニックに。更に不幸にも天然痘が流行して人口が著しく減少し、各地で反乱が勃発する始末。ついに軍人皇帝が君臨する波乱の時代に突入し、ローマ帝国は分裂へと歩を進めていったのでした。
中央アジアではサーサーン朝ペルシアが興る
中央アジアにはローマ帝国と地中海世界を巡って争っていたアルサケス朝パルティアという王朝がありましたが、『三国志』の時代には既に斜陽に差し掛かっていました。ローマ帝国との度重なる戦いによって国力が削がれていたアルサケス朝は、サーサーン朝によってとって代わられます。ちなみに、アルサケス朝とサーサーン朝との間にどのような戦いがあったのか、そもそもサーサーン朝の起源は一体どこにあるのかなどといったものは未だに謎に包まれているそうです。
インドには2つの王朝が滅亡
『三国志』の時代のインドには北西部にはクシャーナ朝、南部にはサータヴァーハナ朝がありました。クシャーナ朝は匈奴に住処を追われた大月氏を起源とする国、2世紀半ばには仏教に帰依したカニシカ王の統治によって最盛期を迎えました。
特に文化面ではガンダーラ美術が栄え、史上初の仏像も生み出されています。3世紀には魏とも交流を持っていたクシャーナ朝ですが、サーサーン朝の侵入によって滅亡の憂き目に…。一方、サータヴァーハナ朝の方はローマ帝国や東南アジアとの交易によって栄えており、2世紀末にも領土を拡大するなどしていたのですが、3世紀には中央の力が弱まり周辺諸侯に押し負けて内部崩壊してしまいました。
三国志ライターchopsticksの独り言
いかがでしたか?
『三国志』に描かれている時代には中国だけではなくヨーロッパや中央アジア、インドといった大きな文明が起こった地域でも大きな動乱期を迎えていたようですね。後漢から三国時代という時代はあまりにも遠い時代であるため、世界的に見ても史料不足によってその全貌が明らかになっていないことが多いようです。
そんな中、『三国志』をはじめとしてたくさんの文字史料が残されている中国史は異端な存在なのかもしれません。そして、その史料の多さこそが多くの人の心をつかむ中国史の魅力の1つなのでしょう。
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