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相撲は信長のコミュニケーションツールだった【どうする家康】

2023年2月5日


資金が豊富な織田信長

 

NHK大河ドラマ「どうする家康」第4話では、あいさつに来た松平元康を相手に信長が相撲を取った様子が描かれました。相撲好きとして知られる信長ですが、どうして相撲に熱心だったのでしょうか?

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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信長はただの相撲好きではない

ASMR 11月 織田信長

 

織田信長は、1570年に近江の常楽寺で大相撲大会を開催してより、度々、大規模な相撲大会を催し勝者は家臣に取り立てたり、金銀拵えの太刀を与えたり、領地や屋敷を与えるなど大盤振る舞いをしています。景品の豪華さに相撲大会は回を増すごとに参加者が増え、1578年の大会では1500人もの力士と力自慢の武将が参加しました。この盛況ぶりには信長の興行主としての才能も窺えますが、信長はただの相撲ファンではありませんでした。

 

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相撲はハダカで誰でも参加できた

衆道?織田信長と森蘭丸

 

一説によると相撲を裸で取るように命じたのは織田信長だとも言われています。理由は鍛えあげられた男たちの裸体が見たかったから…ではなく、身なりが貧しいために大会に参加する事を躊躇する参加者を気遣ったからです。当時は身なりが身分に直結していて、身分が低い事をバカにされるのが嫌で大会に参加しなかった強者もいたようです。信長は参加希望者は誰でも参加させていたそうで、貪欲に人材を求める一面が分かります。

 

裸のぶつかり合いでコミュニケーション

織田信長とマブタチな破天荒すぎる近衛前久

 

裸の付き合いという言葉もあるように、人間はお互い裸になれば、身分の上下を忘れて、仲良くなれるものです。織田家には実力主義の気風はありましたが、実際には家臣団でも信長に仕える時期が早い順に序列が存在しました。しかし、このような序列は能力で人材を引き上げようという時に抵抗勢力になります。そこで信長は相撲を通して家臣たちに裸の付き合いをさせコミュニケーションを円滑にしようとしていたのかも知れません。

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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