どうして信長は京都に在住しなかったの?

2020年11月8日

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kawauso編集長(石原 昌光)

編集責任者

kawauso編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務めるほか、紙媒体やWebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者・おとぼけ(田畑 雄貴)

コンテンツ制作責任者

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月に「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感していただけることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。

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馬にのり凱旋する将軍モブ

 

戦国の風雲児、織田信長(おだのぶなが)、彼は永禄11年(1568年)に足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛してより、本能寺の変に倒れるまでの14年間、ピンチは何度もありましたが、京都を外敵から守り抜く事に成功しました。

 

ところが、当の信長自身は、京都に代官を置いただけで長期滞在する事は無かったのです。一体どうして、信長は京都に住まなかったのでしょうか?

 

信長が京都に入らない理由は必要がないから

 

 

織田信長が京都に在住しなかった理由、それはシンプルで必要がないからでした。天正7年(1579年)近江国の安土山に城を築いた織田信長は、ここを拠点にして天下取りの方略を進めていく事になります。

 

信長が、どうして安土山に城を構えたのか?

 

それは安土が、東海道、そして中山道という二つの街道の近くに存在しているという理由と琵琶湖を通じて北陸街道にも近く、越前加賀の一向一揆や、越後の上杉氏に備えるにも、抜群に良い立地条件だったからです。

 

一向一揆(農民)

 

また、琵琶湖(びわこ)の水運を使えば、半日で信長は京都に入る事が可能でした。つまり、信長にとっては地図で見るほど、安土と京都は遠距離ではなかったのです。

 

織田信長の手足になった沖島惣中

鉄甲船

 

琵琶湖の沖合1.5キロに、沖島(おきしま)という有人島が存在します。現在でも250人の住民が住んでいて市立小学校や郵便局もありますが、ここには戦国時代、沖島惣中(おきしまそうちゅう)という島民の一揆(いっき)が結ばれていて、琵琶湖を通行する船は、ここで関銭を支払うかわりに、沖島惣中に航行の安全を守ってもらっていました。

 

簡単に言えば、沖島惣中は湖賊であり、関銭を払わない船は容赦なく襲っていたわけです。沖島は、戦国中期までは南近江守護の六角氏の支配下にあり、その後、延暦寺門徒の堅田の支配下にありましたが、織田信長が近江を平定すると信長の支配下に入りました。

 

織田信長

 

信長は、沖島惣中に関所の特権を認めると同時に、水軍として手足となり働くように命じ、浅井攻めでも足の速い船三艘を惣中から動員させています。この点から分かる通り、信長は沖島惣中を支配下に置く事で、琵琶湖をわが物として自由自在に移動する事が出来るようになります。

スキッパーキ(航海する船)

 

京都に異変があれば、沖島惣中に命じて、快速船で京都に渡ればいいのであり、京都に常在する必要はなかったのです。また、沖島惣中は、かなり水戦に強かったのか、豊臣秀吉の朝鮮出兵でも、琵琶湖周辺の漁民共々動員されています。

 

はじめての戦国時代

 

京都では色々目立てない

安土城 織田信長が作らせた城

 

また、安土城は防御施設というよりは、人に見せる為に威厳のある壮麗な城郭として建てられています。つまり、京都のようなゴチャゴチャした所に安土城を立てても目立ちません。

 

つまり、どうせ建てるのであれば、琵琶湖に近く湖からも東海道からも中山道からも、大勢が見物できるような場所に建てるのが望ましかったのです。そういう意味では街道が集中し、琵琶湖にも近い安土に城を構えるのが一番効果的だと言えるのかも知れません。

 

本能寺の変で「是非に及ばず」と切り替えの早い織田信長b

 

こうして、京都から距離を置いた織田信長でしたが、皮肉にも京都本能寺に少数で滞在した僅かの隙をつかれて、重臣明智光秀に討たれてしまいます。京都常駐を避けた信長が京都で非業の死を遂げるとは運命の皮肉ですね。

豊臣秀吉は京都に常駐したのか?

 

 

さて、織田信長の後継者となった豊臣秀吉ですが、彼は京都に常駐したのでしょうか?

 

本願寺顕如

 

天正11年(1583年)秀吉は、信長が城を建設しようと目をつけていた、かつて石山本願寺(いしやまはんがんじ)の居城があった大坂の上町台地の先端に大坂城を築き始めます。ここは、低地が多い大坂では珍しい高地であり、淀川の水流に近く京都とも水路が通じ、貿易港の堺とも、瀬戸内海からの船が入る港からも近い場所でした。

 

金の亡者の豊臣秀吉

 

ちょうど、織田信長が安土に目を付けたように、秀吉も経済の大動脈がある大坂に豪華絢爛な大坂城を築いて、天下人アピールをしたのです。ここまでは、秀吉も信長のスタイルを踏襲している感じでした。

 

ところが、天正15年(1587年)9月に秀吉は豪華絢爛な御殿、聚楽第(じゅらくだい)を上京区に完成させ4年間執務を執ります。

 

豊臣秀次

 

そして、天正19年(1591年)には、関白の役職と豊臣氏長者(とよとみうじのちょうじゃ)を甥の豊臣秀次(とよとみひでつぐ)に譲り、聚楽第も秀次の居城として与えてしまうのです。

 

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

その後、秀吉は隠居地のつもりで、当時の京都の郊外である伏見(ふしみ)に伏見城を建設しました。こうして見ると秀吉は、信長と違い郊外とはいえ京都に常駐したかのように見えます。どうして心変わりしたのでしょうか?

 

その理由としては、秀吉が天正13年(1585年)朝廷の混乱を利用し武家として初めて関白太政大臣(かんぱくだじょうだいじん)に上り、武家としても公家としても頂点を極めた事が影響しているのかも知れません。元々は、信長のように京都から距離を置いてコントロールするつもりが、自身が公家(くげ)になり、そうもいかなくなったんでしょうね。

 

秀頼が生まれ、大坂城に比重が傾く

名古屋城

 

しかし、秀次に全てを譲って余生を送るつもりの秀吉に奇跡が起きます。文禄2年(1593年)諦めていた嫡男の豊臣秀頼(とよとみひでより)が誕生したのです。

 

隠居するつもりだった秀吉は、こうして180度方針転換し、文禄3年(1594年)10月頃より宇治川の流路を巨椋池(おぐらいけ)と分離して伏見に導き城の外濠として防御力を固め、伏見城下には、大坂城に通ずる港湾を整備しました。

 

にぎわう市(楽市・楽座)

 

さらに、巨椋池に小倉堤(おぐらつつみ)を築いて、その上に街道を通し新たな大和街道とするなど大規模な土木工事を行います。これらの行動は、幼い秀頼の為に、まだ死ぬわけにはいかないと奮起した秀吉が、伏見城を京都と大坂を結ぶ軍事と経済の要衝として、聚楽第の秀次と大坂城の秀頼を結ぶ二元政治を意図したものだと考えられています。

切腹する豊臣秀次

 

ところが、秀頼が生まれた事で関白、豊臣秀次の立場は日に日に悪くなり、文禄4年(1595年)7月、秀次は高野山に追われ切腹。聚楽第も過去の遺物として徹底的に破壊され、たった8年で地上から消えてしまいました。

 

ただこれにより、秀吉の目線は再び大坂を向く事になり秀吉自身は伏見に住みながらも、豊臣政権の比重は京都から秀頼の大坂城へと傾いていくのです。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

どうして、織田信長は京都に常駐しなかったかについて書いてみました。恐らく、信長は京都を大事にしていなかったわけではなく、安土という京都に近く、街道と水運を抑えられる土地の方が、本拠地としては有利だと考えたのだと思います。

 

仮に京都に異変があっても、沖島惣中の快速船で半日では上洛できますから、地図で見る程の物理的な距離を信長は感じていなかったのでしょうね。

 

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織田信長スペシャル

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。「はじめての三国志」編集長。三国志・中国史を中心に、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を執筆・編集し、当サイトでは4,000本以上の記事を担当。三国志は正史から入ったため、演義を書くときのほうが神経を使うという天邪鬼。故郷・沖縄の歴史に関する勉強会の開催や、ラジオパーソナリティとしての活動も行う。

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