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徳川家康は信長に反抗した事があるのか?【どうする家康】

2023年2月12日


織田信長が恐ろしすぎる徳川家康

 

NHK大河ドラマ「どうする家康」の主人公の家康は織田信長に圧倒されっぱなしの描写が多いですが、史実の家康はどうだったのでしょうか?

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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史実では信長に反抗もした家康

家臣にどうする?と迫れられる徳川家康

 

史実の家康は、武力で優勢な信長相手でも意地を見せる事があったようです。たとえば、三方ヶ原の戦いで武田信玄に攻め込まれた時、信長は浜松城を捨てて岡崎に撤退するように指示したそうですが家康は、「浜松を捨てるくらいなら刀を踏み折って武士を辞める」と啖呵をきっています。これは意地だけではなく簡単に本拠地を捨てては、徳川を裏切り、武田に鞍替えする国人衆が多くなる事を恐れた為とも言われています。

 

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二度も援軍を要求する家康

徳川家康の馬印と徳川家康

 

家康は信長に反抗するだけではなく、援軍の催促もしています。長篠の戦いでは当初、信長は「勝頼ごときは徳川だけで充分だろう」と援軍を出し渋ったそうですが、家康は二度も援軍を催促したそうで、二度目には援軍を出さないなら勝頼と和睦して尾張を攻めると脅迫したとも言われています。一歩間違えばという感じですが、家康は決して信長の言いなりの名ばかり同盟者ではなかったようです。

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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